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2009年12月22日(火) 
持ち帰った安志姫神社の石碑の写真から、神社の由来を書き写して紹介します。少し長くなりますが。

安志姫神社の由来
「安志姫神社は安師の里(後の安志郷安志荘)と呼ばれた安富町域の土産神安師比売の神を祭神とし、祭神は遠く人天皇十三代成務天皇の御宇甲申年昭和61年より遡り1850年の昔、当初に勧請し祭祀されたと伝えられ、関を除く12村を氏子とする古い社である。播磨国風土記には伊和の大神が安師比売の神に求婚したが拒絶され、怒った大神が川上を石でせきとめて三方の里の方へ流したので水の少ない川になった。この川は、神の名を採って安師川といいこれまで山守の里といったのを川の名によって安師の里と改名したと述べている。
古くは播磨国の主要な24社の中に数えられ播州国総社に合祀され室町時代初期の峰相記にも見える。慶長検地の記録によると、安志賀茂神社、名坂八幡神社とともにそれぞれ畠2○が免祖地に認められ江戸時代の記録ではこの3社が安志谷氏神王社とされている。播磨鏡によると祭礼は旧暦10月26日であった。関を除く12ヶ村が年番で行い、馬駆けの神事によって馬駆け祭といい近年まで続いていた。祭礼に國永・進藤両家の出席を要するのは、両家には特に祭神安師姫と親しかった伝承があることからみて、変形した当屋制のなごりとみるべきであろう。また祭礼に欠かせない神饌餅粟飯(もっそう)は神官自ら作り神事参列者に三個ずつ共応するのに両家が1個であるのは、本来は両家が当屋として当主が自ら作り祭礼を司ったことを示し、近世の初め神官職の出現によって祭礼がゆだねられ当屋の制が変形したことを示している。」

◇安志姫は、強い力をもつ伊和大神のプロポーズを拒否した結果、伊和大神は怒りおさまらず、川をせき止める怒り狂いよう。その様は、よほど安志姫に心抱いていたのか。この後、姫はどうなったのだろう。神社前の、看板に、縁結び、子宝、安産祈願とある。それは、よい良縁に恵まれ、子宝に恵まれたことを示しているのであろう。
 伝承の後半に、姫の親しい2つの家(國永・進藤)の存在は、意外。この両家に伝わる伝承は、祭神としてではなく、人間安志姫のつながりと見た。

安富町は宍粟郡5町から袂を分け、宍禾郡(しさわのこおり)の7里の一つ安師(あなし)の里が、姫路に移ってしまった。宍禾郡の永い歴史を振り返るとき、同じ生活圏で共に歩んできたのにどうして・・・と思わずにはいられない。

※石碑の字が読みにくかったので、一箇所不明なのと、誤植があるかも知れませんが、その時はお許しを。

※地名の由来「富栖・安志」もご覧ください。
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閲覧数603 カテゴリ日記 コメント3 投稿日時2009/12/22 15:28
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