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2010年05月19日(水) 

 

播磨 千草城跡のこと

 

 千草城(ちくさじょう)については、地名の由来「黒土(くろづち)」で現在の五社(ごしゃ)神社が城跡に建てられ、別名城宮(しろみや)と呼ばれていることを知りました。その後、1ヶ月ほどして、神戸新聞に中世の城の研究家の藤原孝三さんのことが紹介されていたので、すぐに藤原氏に連絡をとって、お話を聞き、貴重な資料もいただいた。藤原氏は、中世の魅力に引かれて、北播磨の古城の調査を仕事の合間をぬって精力的に研究されています。

 私は、今年1月に、和田山の竹田城に登り、古城の石垣のすばらしさを感じていたところであったことや、地名の由来「黒土」の発信をしたばかりだったので、興味深くお話を聞きました。中世の城については、ほとんど文献が残っていないだけに、遺跡の構造から、城の機能、役割、改修の痕跡を歴史的背景の中で浮かべあがらせるなど、中世の城を長年の足を使った丹念な調査と独自のするどい歴史観で分析されています。

 

  

   藤原氏の承諾を得て、はじめの部分(1~5頁)を原文どおり紹介します。興味ある方は、一読ください。 ※この冊子は、 宍粟市立図書館(山崎)にあります。

 

  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

▼千種町七野より千草城を望む

 

 

千種鉄のふるさと 千草山城

  

はじめに

 

 宍粟市千種町には、かつて「千草城」があった。

しかし その姿は、今日まであまり明確になっておらず、伝承があったのみである。

昭和57年発行の兵庫県教育委員会「兵庫県の中世城館・荘園遺跡』には「石原城」

として記載されているが、城郭として正確に把握されているとは言い難いものである。

 今回 その実像を求めて調査研究をおこなってみた。

実際に調査を行なってみると、戦国時代の播磨「境目の城」として立派な城郭である。

 特に、この地区は「千草鉄」の山地として、日本刀の材料として重要視されていた。

城郭この事柄を考慮して築かれており、実際の現地調査にもこの事を十分に考えて行なわねばならない事は当然である。

 

 各種の文献にも「千種で作刀」とあり、この地で刀作りが行なわれていた事も確かである。この城でも、そのことが明確になればより好ましい事である。

 城郭の詳細について、以降に各項目の解説を行なうが、これが緒論となって今後の研究の進むことを期待して提稿するものである。

先輩諸賢の御指摘をお願い申し上げます。

 

位 置

 

 兵庫県の北西部、千種川上流部に位置する宍粟市千種町黒土地区河井に存在する。千種町は、『播磨風土記』にも記されているように古代より鉄を作り、中世以降は、特に備前の刀匠たちに珍重されて数々の名刀を残した「千草鉄」のふるさとである。

 

江戸時代の国絵図

 

 

   国道29号線の斉木口交差点(宍粟市波賀町)より岡山県に向かう国道429号線を10km入った千草町市街地の南に聾える半独立状の峻険な山体(標高390m)に築かれており現在は城宮が祀れている、市街地を眼下にして美作方面への分岐路も直下にあり、千種川沿いの谷筋を把握する要衝の地点である。

 

 この位置関係は「波賀市街地と古城山」と同じ様子である。

また その位置は、播磨国の北西部にあるが、歴史的に見ると「境目の城」として重要な位置を占めており、それなりの人物がその任に当たっていたものと予想される。

特に時期としては、南北朝期と戦国時代に当たり、構造にその跡を見る事ができる。

 歴史的には、別の項で述べることにするが、この地域の緊張を感じる事ができる.。荘園の時代は「佐用荘」に含まれていた事もあるが、宍粟郡部周辺の支配者であった「宇野氏」の勢力下にあり、その関連を見る事ができるものである。

 

 特徴

 この城の特徴は、千種地区の城と言うよりも「播磨の城」として機能する役目を持っており、その要素を構造に見ることが出来る。

城郭は、その地区を経済的に支配し、侵入する勢力から防御する事を最大の目的としていることは言うまでもない。

 

それでは「千草城」が、どのような特徴を持っているのかを解説する。

 

1.この地区を支配する「位置」を占めている。

千草地区は、波賀から美作地方に抜ける街(国道429号)と因幡地方に抜ける街道(国道373号)の分岐点にあり、「干草鉄」の産地である町屋街の南側の重要な地点に存在している。

 2.「山城部分」に比べて「屋敷部分」が大きい。

山城部分も、「堀切」や「削平地」を巧みに配置しており、戦国時代の特徴である「掘底道」も取り入れられて防備を固めている。

屋敷部分も、性格の異なる「二つの屋敷」があり、この城のもつ特殊性を示している。

 3.支配の二重性を示している。

二つの屋敷を比較すると、この城の支配が複層になっている事が考えられる。

上層支配は、永正18年まで赤松家、それ以降は宇野家であり、一時的に山名氏にも属していた。

下層支配は、赤松時代が大河原氏、その後は石源氏であった。

4.防御の手法として「やり過ごし」と「急坂」が使われている。

城郭の重要な場所には、こ組み合わせの防御構造で防備を固めている。

これは、後の「袖折れ虎別」に至る構造である。

明確なのは、二箇所に認められる。

5.「水」を大切にしている。

この城の「水場」は、三箇所に存在しており、そのぞれの用途に差がある。

イ、山城の本郭にあり、篭城に備えたもの。

ロ、大手口の脇こあり、上場数に使われるもの。

ハ、日常の居住に使われるもので、かなり大きなものである。

 6.この城の存在している山体は「マサ土」なので崩れやすい。

この山は、崩れやすく、狸や狐の巣穴によって各所に穴があり、早急な対策が必要であると考えられる。しかし、水には有効である。

これら事項を検討すると、この城の持っている改修と堅固さを知る事ができる。

 

  千草城の見取り図

 

 

※地名の由来「黒土」

http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=8055&…bbs_id=102

※五社神社(黒土)

http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=10532…;bbs_id=86

 

※宍粟の城跡アドレス一覧

http://shiso-sns.jp/community/?bbs_id=122

 

「E-宍粟」支援隊そーたんs


閲覧数1,663 カテゴリ日記 コメント4 投稿日時2010/05/19 14:55
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