宍粟の地名(由来)の「「神楽岡と揖保川堤」 揖保にまつわる話」
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「神楽岡と揖保川堤」 揖保にまつわる話
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2010年04月30日 11:06
第12話

神楽岡(かぐらおか)と揖保川堤(つつみ)


 余子浜(よこはま)の揖保川堤を南へ歩くと船渡八幡宮神社(通称若宮さん)に着きます。ここが神楽岡です。その名の由来は昔神功(じんぐう)皇后が三韓征伐(さんかんせいばつ)よりお帰りの時、船をこのあたりに着けられ、お神楽を奏せられたことによります。

 若宮様の北に道をへだて網干町初代町長、及び県会議員を歴任した加藤邦太郎氏の碑があります。碑の題字は、勝海舟の筆によります。あの有名な江戸城開城のとき、西郷隆盛と劇的な会見をした海舟と、網干との関係に誰もが疑問を持つでしょう。

 それは万延元年(1860)徳川幕府が、日米修好の便節を米国に送るため、咸臨丸(かんりんまる)の艦長勝海舟に命じて、我国では初めて太平洋横断の荘挙を成し遂げたのです。この威臨丸に赤松則良(のりよし)と云う網干町出身者二世が乗組員となっていたのです。

 父の政範(まさのり)は幼いとき、母が志方(しかた)村へ再婚したので網干を去り、江戸に下り奉行所目安方であった吉澤家の養子になりました。政範は勤勉で与力になりましたが、子の則良(のりよし)は祖父の赤松氏を名乗り、15才のとき蘭学を学んで、勝海舟の部下となりました。のちに明治新政府に出仕し、海軍中将、男爵を授けられました。題字は河野東馬(こうのとうま)先生の望みにより10日たらずで網干に届けられたのも、赤松氏のおかげといいます。

 船渡八幡神社を西に出れば、ながめは西に開けて素晴らしい。正に山紫水明で特に夕景が美しく河野鉄兜(こうのてっとう)先生の詩文「題網干」を思い出します。その昔、若宮裏の深淵は、船渡八幡のお手洗い場なので殺生を禁じ、鯉や鱸(すずき)が群泳していました。加藤高文(邦太郎氏の父)の書斎を鉄兜の詩友、柴秋村(阿波の人)が観魚楼と名付けました。

 網干歴史散歩

※参考:船渡八幡神社(姫路の地名色模様)
http://himejitimei.seesaa.net/article/7592304.html


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