宍粟の地名(由来)の「「揖保川下りの筏」 揖保川にまつわる話」
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「揖保川下りの筏」 揖保川にまつわる話
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2010年04月23日 10:24
第8話 

揖保川下りの筏(いかだ)

 筏は、古くから木材の輸送方法として利用されてきましたが、その最盛期は1928~9年頃(昭和3~4年)だったようです。1940年頃(昭和15年)になるとトラックの発達によりなくなったようです。

 揖保川における筏の主な発達地は一宮町閏賀、波賀町上野で、上野より流してきた筏は、閏賀で組み替えて6~8人が一団となり、山崎へ出てくる事が多かったのです。山崎は筏の中継地点になっていて、すべての筏はここで組み替えられ二つを一つにして乗組員一人で網干、飾磨へと向かったのです。従って山崎で余った半分の筏師は徒歩で一宮町、波賀町へと帰り山崎泊まりはありません。筏師の人数は一宮町閏賀22~3人、嵯峨山12~3人、田の尻5~6人、生栖3人、波賀町小野6~7人、安賀4人だったようです。

 筏を流す時期は流域の濯漑用水の関係上、耕地に水が不要になり、井堰の切れる九月二十日頃より翌年川止まりの六月中旬まででした。筏は丈物(たけもの(3メートル)二間物(4メートル)の材木が主ですが、電柱等の長い物も使用され、それらはすべて定尺より十二センチ程長く切断し、両端に切り込みをしてカズラでつなぐのです。筏の先頭から4メートル物二連、次に3メートル物一連を継ぎそれより後は3メートル4メートルその他長尺物を適宜便用し十四連程度にするのです。そうすると筏の全長は6~70mになります。筏は長くする方が早く流れるのです。

 筏の幅は最初1~1・5mで流しますが、水量の多くなる山崎より2~3メートルの幅に組み替えて流します。こうして筏を組むために使用されるカズラは量も多く一つの筏に五十キロ程度を必要とし、地元では調達できず遠く佐用郡、岡山県英田郡より求めたのです。

 行程は水量が多く早く流れる時は一宮を朝8時に出発し夕方網干へ到着、その日の内に帰宅する事もあり、水量の少ない時は山崎・香山・龍野・網干着と4日間もかかった時もあります。しかし通常は香山で一泊し二日間で往復していたようです。そして帰りは網干~新宮は電車、新宮~山崎はバス、山崎~一宮は徒歩で帰ったのです。 

 次に筏師の賃金を見ると、筏一つで木材が大体四十石(11.12㎥)程度であり、運賃として7円50銭程度の収入ですが宿泊費、帰りの乗車賃等を差し引き、春は二円冬は1円50銭程度の日当でした。しかし当時は普通の日当が7~80銭であったので筏師の日当は非常に高かったと言えます。(1円は百銭)

 筏師になるためには当初山崎の中継点まで二人乗り組で練習し、やがて一人乗りとなりー宮より網干まで一人で操られるようになれば一人前と言われたのです。筏を操るためには揖保川のすべてが危険箇所と思わなければなりません。発進地の一宮における水量を見て下流の何処でどの程度の水量か、又何処はどのように竿を使うかと判断が出来なければならなかったと言います。筏師の間では見せ竿という言葉があり、筏を操るために長さ四メートル程の比較的柔軟性のあるチシャの木の竿を使いますが、筏師も上手になると早く水の流れを見分け、軽く竿を指すだけで筏を操っていたのでこの言葉が生まれたのです。

 木材の販路は網干が主でしたが龍野で販売される場合もあり、時には網干より小舟に引かれて飾磨港まで行く人もありました。


「新宮町史よもやま話 文‥瀧浦 重市」


※筏流しについては、一枚の写真「水運物語Ⅰ」をご覧ください。
http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=7019&…;bbs_id=99



「E-宍粟」支援隊そーたんs

▼筏流し挿絵 ▼丸太の根元部分が削がれている

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