宍粟の地名(由来)の「「羽柴秀吉と網干」揖保川にまつわる話」
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「羽柴秀吉と網干」揖保川にまつわる話
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2010年04月21日 10:30
第6話

羽柴秀吉と網干

 秀吉は、天正7年(1579)12月、御着城、翌八年正月17日、三木城、ついで2月12日には英賀(あが)城を攻略してついに播磨をおさめました。
 そのとき、秀吉は書写に本陣を置いていました。姫路はもともと黒田職隆(もとたか)、官兵衛孝高(よしたか)親子の居城なので、自分は先頃攻略した三木城を修理して移りたいといいました。                                        
 孝高は、
「三木は播磨の辺境で国を治めるのに適当でありません。この姫路こそが利水、交通の適地です。」
と進言しました。
 そして官兵衛親子は姫路城を秀吉に譲り、妻鹿(めが)の功山城(こうやまじょう)に移りました。
秀吉は大変よろこんで、早速、四月から姫路城の改築に着手しました。
 翌九年三月、三層の大天守が播磨平野に偉容をあらわしました。

目録
一、壱千二百五十四石八斗 越部上庄(こしべのかみのしょう)(揖保郡新宮町)
一、九百二十石 伊勢村上下(じょうげ)(林田町伊勢)
一、弐千九百十三石 岩見(いわみ)の庄(揖保郡御津町)
一、四千九百七石 福井の庄(網干)

 天正9年3月18日
     秀吉花押 黒田官兵衛殿
                   
 官兵衛は大変感激して、4月に秀吉を我が領地網干に招き、沖之浜洲(おきのはます)に宿陣しました。
 そして、鶴立山大覚寺(かくりゅうざんだいかくじ)に参詣して、沖之浜洲で大茶会を催しました。

 揖保川の川岸から沖の白洲にかけては千本松原といわれるほど松が生い繁り、茶会の席から、たくさんの鶴が飛び交うのが見えました。

 秀吉の席のすぐ近くの大松の天辺に一羽の見事な鶴が巣をかけていました。
「これ官兵衛、余は満足じゃ。ときにのう、この亭のことを鶴にちなんで鶴松亭といたせ。」といいました。

 それから、この陣屋のことを「鶴松亭(かくしょうてい)」というようになりました。

 秀吉は、官兵衛の案内でしばらく網干に滞在し、領内を見てまわりました。そして、網干を発展させるためには、揖保川の治水が必要だと教えました。早速、岩見(御津)の里に大井堰を築き、宍粟郡山崎の出石の先まで、高瀬舟が就航できるよう舟運の便を開きました。

 網干浦から出石まで32km余り、たくさんの高瀬舟が上下して、それから網干は大変栄えました。
 私たちが知っているのは明治の初め頃の鶴松亭跡です。そこには米倉がありました。青々と生い繁る大松林に※輔重兵(しちょうへい)が馬をつないで、しばし憩う姿がよく見られました。

 しかし、大正、昭和と時代が移り、いつしか松林もなくなってしまい、揖保川の河川改修工事で東よりに川がつけ変えられたので、今では全く昔を偲ぶことができません。
 先年、有志で昔を偲ぶ碑を建立しました。それが「千本松原」の碑です。

※輔重(しちょう):輸送・補給すべき軍需品

(ひめじ・明治のかたリベ集)


「E-宍粟」支援隊そーたんs

▼挿絵         ▼挿絵          ▼御着・三木・英賀城等の地図

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Re[2]: 「羽柴秀吉と網干」揖保川にまつわる話
【返信元】 Re: 「羽柴秀吉と網干」揖保川にまつわる話
2010年04月22日 15:59
アイテツ先生
播磨、特に長水城(宇野氏)攻めにおける黒田如水の足跡が少なく良い物がありましたらおしえてください。又姫路を中心にしたものでも結構です。
Re: 「羽柴秀吉と網干」揖保川にまつわる話
【返信元】 「羽柴秀吉と網干」揖保川にまつわる話
2010年04月22日 15:10
高瀬舟は登るとき、松の木に紐を掛けて牽いたわけですね。