宍粟の地名(由来)の「「川の流れ、西へ2」 揖保川にまつわる話 」
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「川の流れ、西へ2」 揖保川にまつわる話 
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2010年04月13日 11:00
■揖保川の流れ、西へ  (その2)


 戦国時代に土木治水技術が発達し、まもなく揖保川にも両岸に堤が築かれたので、洪水が起きても流路が変わることはなくなりました。

 このように揖保川の流れが変わったことは、いろいろ問題を引き起こしました。町域の野田・新在家・正条(しょうじょう)は、東にある龍野市揖保上(かみ)・揖保中(なか)・今市とともに12世紀に下揖保荘(しもいぼのしょう)となりました。当初はその全域が揖保川の西にあり、地域としてまとまっていました。

 その後の揖保川の西遷で、荘域は分断されました。新在家・正条はその後も下揖保荘以来の数百年の歴史を引き継いで、川東の三村とともに、今日も荘の氏神夜比良神社(揖保上)の氏子として祭りをつづけています。ただ野田のみは、氏子を離れています。いつ、どのようなことで氏子を離れたのかはまだわかっていません。

 さらに下揖保荘(しもいぼのしょう)に関連しては、正条と袋尻(ふくろじり)の間にある揖保川町宝記山の一角に、現在龍野市の飛び地が入り込んでいる問題があります。そこはもともと飛び地でない下揖保荘の荘地でしたが、荘園制が解体し荘内の集落が分離独立するなかで、今市村一村の山となっていきました。そこがやがて揖保川の西遷で本村の土地と分断され、飛び地となったのです。

 そして近代に今市村が揖保村→龍野市に属することとなり、現在龍野市の飛び地となっているというわけです。これまた揖保川西遷のなせるわざといえます。

出典:「広報いぼがわ」第492号(1999),「あいあいの街物語」


◇今回の発見

・揖保川の流れは、たつの市では数百m西に移動している。移動は氾濫を伴い多くの水害をもたらしたようである。
・古くからの揖西郡・揖東郡の呼び名があるが、その境界はずいぶん東側にあった。今市の飛地が、揖保川の西遷によるものだったが、平成の大合併(2005.10.1)で揖保川町がたつの市となり、その飛び地に終止符がうたれたことになる。

「E-宍粟」支援隊そーたんs

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