宍粟の地名(由来)の「「川の流れ、西へ1」 揖保川にまつわる話」
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「川の流れ、西へ1」 揖保川にまつわる話
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2010年04月12日 13:06
◇揖保川水系にまつわる12話をシリーズで紹介します。
    「揖保川 川のたび」 建設省(現国土交通省)姫路工事事務所発行H12.7 より


■第1話 揖保川の流れ、西へ (その1)

 大地の傾動(けいどう)は、龍野市揖保郡の歴史に次のような影響を与えました。

 東は六甲山から西は岡山県域へと続く瀬戸内海沿いの地帯、そこでは30~40万年前ころから太子町付近を軸として、大地が東へいくなど隆起し、西へは次第に沈降しつづけているといいます。このことが揖保川の流れを次第に西へと変わらせることになりました。

 平安時代、11世紀前期のころ、揖保郡が東西に二分され、揖東(いっとう)郡、揖西(いっさい)郡という区分が用いられるようになりました。この両郡の境は、おおむね龍野市の南部用水路浦上井(うらがみゆ)の線(図のルート①)にあたります。そのころには揖保川はこの浦上井の線を流れており、揖東、揖西両郡はこの揖保川を境に分けられたとみてよいでしょう。

 ところが、それから300年後の南北朝時代、14世紀の小宅荘(おやけのしょう)絵図をみますと、揖保川の流れは前と変わっています (図のルー卜②)。この絵図によって11世紀以降300年の間に、揖保川は西寄りに流れを変えたことが分かります。おそらく大道(だいどう)から中臣山(なかじんやま)の西を回り、揖保井(いぼゆ)(龍野市揖保上-今市の用水)の筋を流れるようになったと考えられます。

 その後、戦国時代の享禄年中(1528~32)のころ、揖保川の流れがさらにかわっています。半田に残る言い伝えによると、当時半田山(はんだやま)の東あたり(中河原、龍野赤とんぼ文化ホール周辺)にあった吉田村が流され、村人の半分が西に移って半田村となりました。あとの半分は中陣(なかじん)村地内に移り枝郷(えだごう※)吉田となったといいます。おそらくこのとき揖保川は、富永(とみなが)より上流の日飼(ひがい)付近から西寄りに転じ、現在の川筋(図ルート③)に流れが変わったと見られます。 (その2につづく)

注)郷:数村を合わせたもの

出典:「広報いぼがわ」第492号(1999)
   「あいあいの街物語」

※第2話 川の流れ、西へ2
http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=8514&…bbs_id=102

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▼揖保川の流れの変化

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