宍粟の地名(由来)の「地名の由来「千種川 その2 川の恵みと水害」」
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地名の由来「千種川 その2 川の恵みと水害」
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2010年04月05日 13:36
千種川 その1の続き

 明治25年(1892)7月22日~23日、南野中(みなみのなか)地先の亀ノ甲井堰が障害となった大洪水で被害は福浦を除き現市域全体に及び、流出家屋527・倒壊284・大破750・浸水2、641、死者79であった。なかでも南野中は戸数117のうち流出39・倒壊41・大破37と全戸が被災し、47人が溺死した(赤穂郡誌)。このため千種川の流路を東側を流れる分流の尾崎川に変更し、拡幅の大改修が行われた。

 昭和51年9月8日~13日の間に台風17号のもたらした総雨量861mmは年間雨量の7割が6日間に降ったため、千種川左岸堤防が2か所決壊し、死者2、家屋の全壊11・半壊142、床上下浸水9、800余りの被害をもたらし、災害救助法が適用された。この災害により堤防12.6km余りの災害復旧助成事業が採択され、河川激甚災害特別緊急事業として放水路の新設・拡幅など同56年までに復旧整備が完了し、安全性が強まった。

千種川のめぐみ ~赤穂上水道 江戸期の生活用水・灌漑用水~

 赤穂上水道は、江戸時代に赤穂城と城下町のために築造された上水道。日本三大上水道の一つとされる。(他の二つは、神田上水、福山上水がある。
 城・城下とともに千種川のデルタ上にあるため掘井戸は塩水が湧き、飲用にならないため上水道が造られた。
 備前岡山藩主池田輝政の代官垂水半左衛門勝重が築造に着手したと伝える。慶長19年(1614)着工、城下の上流約7kmの通称根木(ねぎ)の切山(きりやま)に52間(約104m)の隧道を堀り、元和2年(1616)竣工という。
 千種川の水を目坂・木津・浜市・野中の4村の山麓を幅1間(約2m)の明渠(めいきょ:ふたなしの溝)で導水し、山崎山の下を過ぎて町中へ入ると埋樋で町家と場内へ排水した。同7年の大火後の町割で給水・配水の工事が進み、縦横の各戸配水が完成した。上水道は生活用水と灌漑用水に利用され、昭和48年赤穂市の急速ろ過方式の近代水道が完成してからは灌漑用のみに利用されている。


◇災害の歴史から学ぶこと

 千種川河口付近の赤穂市には、118年前(明治25年)、34年前(昭和51年)の大災害の詳細な記録が残る。
 中流・上流においてさらに、過去幾たびもの水害記録がある。近くには昭和38年、昭和51年そして、昨年8月の台風9号による大災害。千種川とその支流佐用川流域に降り注いだ記録的な集中豪雨は佐用町中心に甚大な被害をもたらした。

 災害は、いつ起こるか誰にもわからない、そして誰にも止められない自然の猛威、しかしその過去の教訓が地域や住民個人個人に生かされれば、被害を最小限に食い止めるいわゆる減災は可能かと思います。

「E-宍粟」支援隊そーたんs

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