宍粟の地名(由来)の「地名の由来「上三河・中三河・下三河」」
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地名の由来「上三河・中三河・下三河」
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2010年03月24日 11:16
今回は「上三河・中三河・下三河」(南光町 現佐用町)をとりあげます。

上三河・中三河・下三河は三河村(7村)の中央に位置する3つの地である。

 三河は、古くは御川と書く。千種川中流域。地名の由来は、伝承によれば、船越と川崎の境、久保田の地の北の自然の堤防を、大山咋命(おおやまくいのみこと)が切り離し川を南流させたといい、この神が作ったため御川と呼ぶという。一説には千種川(古くは熊見川)は異名を人捕り川と呼ばれた荒川で、毎年数回洪水が荒れ狂い、荒ぶる神の川としておそれ敬い御川と呼ばれるようになったとも伝える。また、「三河千石 樋(とい)がかり」という俚謡(りよう)の一説のような言葉が伝承される。川底が深くV字谷に抉(えぐ)り下げられ水面と地面との落差が大きい三河地区は、田の養い水を引くのも容易ではなく、両岸から巨岩が迫り、半ばせき止められた川が激しく渦巻いて流下する樋が鼻には、かつて三河千石の米をつくるための用水を引くおおきな樋が、対岸から川を渡して架けられて井出に通じていた。樋は明治末期まであったという。

【中世】三川村 南北朝期~戦国期に見える村名。南北朝期には当村などは赤松氏の所領となり、観応元年12月5日足利尊氏は赤松則村の遺領である「播磨国佐用庄内赤松上村・三河村・江川郷田大田方・広瀬方・弘岡方・本位田・下徳久」などをその子範資に安堵している。なお、当地は宍粟郡であるが、中世には佐用(さよ)荘に含まれた。

■上三河(かみみかわ)
 延宝年間(1673~81)までに三河村が中三河村・下三河村と当村に分村して成立。文政8年(1825)作州・播州の百姓一揆では、下野村庄屋へ詰めかけるなどしたが、中心人物3~4人が召し捕られて鎮定した。(上三河・中三河・下三河村とも共通)

 神社は八幡神社(明治43年中三河の大森神社に合祀)。

村人の生業は米・麦・大豆・蕎麦・稗作りなどのほか、タバコの生産も行われたことが天明3年の文書に記される。また、作間稼ぎに薪炭を作り、主として下徳久村の大田井や久崎から高瀬舟で出荷した。(上三河・中三河・下三河村とも共通)西境の寺坂峠(標高330m)を越えて海内(みうち)に至る道がある。この道は佐用川流域とを結ぶ重要道であった。

 天保12年(1841)地内に農村歌舞伎の農村舞台が建設された(明治29年再建)。小屋裏回転機構のある当舞台独自のもので貴重である。この舞台の縮小模型が県立歴史博物館に所蔵されている。

 米・麦作と薪炭作りを主としてきたが、明治中期頃より優良品種の導入による牛の品種改良・増殖と養蚕に力を入れた。(上三河・中三河・下三河とも共通)

■中三河(なかみかわ)

 神社は大森神社、由緒書によれば弘安年間(1278~88)千種川が氾濫し、上流の千種町の大森神社のご神体が流れ、数日後 当村の淵の下河原で馬がいななくところで神体を得て祀ったといい、以後この淵を馬嘶淵(まさいぶち)と呼ぶようになった。同淵には河童の駒引き伝説があり、馬螺(うまら)が淵とも呼ばれるという。明治初年の氏子は山崎町の塩田村・土万村などにも及んでいた。

■下三河(しもみかわ)
 
 因幡道の平福宿(現佐用町)から口長谷(くちながたに)村(現同上)を経て、当村を通り、東境の八重谷峠(標高250m)超えで土万村を経て山崎町に至る枝道があった。平福宿から道程2里、賃銭は人足64文・本馬107文・軽尻馬88文の記録がある。地内に常光庵がある。

◇今回の発見
・三河地域は、中世には佐用荘(さよのしょう)という赤穂郡北部・佐用郡の東部を除く大部分と宍粟郡にかけた広大な荘園の一部であった。
・三河に流れる清流千種川。地名は、その河に宿る荒ぶる神の尊称からとも言われる御川にちなむ。昔からこの地域は田畑の用水を引くのが難儀で、まして毎年数回の洪水で悩まされたという厳しい自然環境であった。

「E-宍粟」支援隊“そーたん’s”

▼南光町三河地区

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