宍粟の地名(由来)の「地名の由来「植木野・三坂・瀬川」」
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地名の由来「植木野・三坂・瀬川」
【閲覧数】943 【マップカテゴリ】安富町(現姫路市)
2010年03月19日 12:06
今回は、「植木野・三坂・瀬川」(安富町安師地区)をとりあげます。

■植木野(うえきの)
林田川上流域、安志村の南に位置し、南は下村。集落は南流する林田川東岸の山麓部にあり、同川に近い平地に一部が立地する。対岸黒山は急な岩山となって川に落ち込んでいるため通行不能で、因幡国への道は当村の南北で川を渡り村内を通った。江戸時代前期には上野村と称された。地名は植野村とも表記することもあったように、改称に際して植木のある村、すなわち裕福な家の集落を意味する村名を選んで将来の繁栄を願ったと考えられる。夢前町護寺から当町の三坂・植木野・塩野を経て山崎町須賀の峠へと続く道は姫路・鳥取を結ぶ因幡街道の古道であったという。

 圃場整備前に小規模条里遺構が認められた。室町初期の宝篋印塔、山中から出土した室町中期の五輪塔と一石五輪塔、植木野天神のムクノキがある。字薬師ノ元は薬師堂の旧地、天神ノ元は天神社の所在地、萸谷(ぐみだに)はグミが多いところによる。神社は、天神(現在天満神社)・荒神2社、荒神2社および薬師堂(のち移転)があった。

 尼崎藩では、菜種専売制を実施。寛政年間(1789~1801)内で菜種栽培を勧め、藩が収納。天明飢饉には天明3年凶作御手当被下米19石、同4年難渋人御救被下銀156匁7分5厘5毛(76人分)を支給。嘉永7年の南海大地震で大きな被害を受けた。明治7年塩野村の感化小学校を移し承化小学校とする。


■三坂(みさか)
古くは三阪とも書いた。林田川の支流三坂川が刻む盆地状河谷に位置する。東の護持峠によって飾西郡、西の低い峠によって植木野へ通じ、姫路~宍粟郡・因幡国の最短道として利用されたという。護持峠を下った村の入り口に通称木戸口があり、通行者の検問所があったと伝える。地名の由来は、通説では御坂が原義というが、三坂へ至る三方からの道が坂道であることによるものか。
 神社は山神・荒神・大明軍(神か)、寺院は浄土真宗本願寺派明覚寺派明覚寺がある。
寛政年間(1789~1801)尼崎藩では菜種油専売制を実施。領内村に菜種栽培を奨励し、藩が収納した。天明飢饉に際し藩は、天明3年凶作御手当米7石、同4年御救銀70人分144匁を支給。
元禄年間(1688~1704)飾西郡野畑・戸倉・護持3カ村との間に大谷山をめぐる山論を生じ、元禄12年(1699)境界を確定、16の塚を築いたが、安永年間(1772~81)再燃し、大坂奉行所の裁断により当村の主張が認められた。


■瀬川(せがわ)
林田川上流に三坂川の合流する地点付近に位置する。神社に火魂(ひのたま)神社。寺院に浄土真宗本願寺派妙福寺があり、同寺の開基は永禄8年(1565)。ほかに薬師堂があった。明治9年妙福寺に三川小学校設置。


◇今回の発見 
・安志谷は四方を山に囲まれ、他領との境界はほとんど山中に存在し、農民の生活に山の草木などの生産物が関係し、いったん山論が起きると、農民の死活問題となった。三坂の大谷山論争のような他郡との関係だけでなく、地内の境界でも論争があり、中でも安志谷の上三か村と下九か村との山論は長期化している。町史に山論の年表があり、5頁に亘って争論と結末が記されている。

「E-宍粟」支援隊“そーたん’s” 

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