宍粟の地名(由来)の「地名の由来「塩野・狭戸」」
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地名の由来「塩野・狭戸」
【閲覧数】2,540 【マップカテゴリ】安富町(現姫路市)
2010年03月18日 13:09
今回は、「塩野・狭戸」(安富町安師地区)を取りあげます。

■塩野(しおの)
 林田川上流域。長野村の南西に位置する。集落は林田川の西岸に東西に分かれて立地し、東塩野・西塩野と通称される。地名は、シボ(撓)ノ(野)に由来。進藤岡右衛門とお万の悲恋の伝承地「お万淵」がある。地内字末房は名田、札場は高札を立てた場所、紙屋垣内は紙漉きを生業とする家があったところに由来する地名。林田川沿いにある貧田川原・東河原・前河原・下河原・向河原は開拓が新しいことを示し、貧田は新しい地味のよくないことをいう地名である。

 江戸時代中期ころには当村は東塩野村と改称していた。これは土万谷の塩野村(現山崎町塩山)との混同を避けるためと考えられるが、改称の年次は不詳。なお、明治7年の内務省地理局布達には塩野村となっている。

 室町期成立の「峯相記」に文永年間(1264~75)頃に富貴の輩が五ヶ所の「奇麗ノ念仏堂」を建立し、そのうちの一つとして安志田所兼信が塩野に造立した塩野寺がある。同寺は朝日山顕実の死去とともに廃れ、のちに禅宗に転じた。塩野寺の所在地は、これまでの現安富町塩野と現山崎町宇原との境界の屋根上にある禅寺山(ぜんじやま)廃寺や五万五千枚余りの古銭(唐代・宋代の中国の古銭)が出土した塩野の浄土真宗本願寺派了円(りょうえん)寺境内から一枚作りの布目瓦が採取され、塩野寺ではないかと注目を浴びている。

 寛永7年(1854)11月5日の南海大地震の際には大きな被害を受けた(土居家文書)。大歳神社がある。了円寺は大永2年(1522)の建立、開基は意安。寛政6年(1794)同寺は近隣の出火で類焼した。(同文書)。ほかに薬師堂がある。

 尼崎藩では、菜種油の専売制を実施、寛政年間(1789~1801)領内村で菜種栽培を勧め藩に収納させた。天明飢饉には天明3年(1783)凶作御手当米12石、御同年救銀352匁(171人分)支給。明治6年了円寺に感化小学校設置、翌7年植木野に移転。

■狭戸(せばと)
 安志谷の南端、南流する林田川の西岸に位置し、北は塩野村。南は揖東郡松山村(現姫路市)。西の山麓の低い河岸段丘上の集落が古い集落とみられる。地名の源義が狭処で、集落が立地する山麓の細長く幅の狭い大地に由来する。羽柴秀吉の長水城攻略戦の際、当地で激しい前哨戦があったという(長水軍記)。大歳(おおとし)神社境内に※「お万淵」の悲恋の進藤岡右衛門の墓がある。

 元禄6年(1693)宍粟郡村々反別郡玉帳によれば、観音堂(現大歳神社境内に所在)・薬師堂(廃絶、仏像は観音堂に現存)・地蔵堂・歳大明神(現大歳神社)・妙見・山神2・荒神・道祖神があった。寛政年間(1789~1801)尼崎藩は菜種栽培を奨励、藩が収納。天明飢饉に際し、藩は天明3年(1783)凶作御手当米17石、同4年御救銀96匁余(47人分)支給。嘉永7年(1854)11月5日の南海大地震で大きな被害を受けた。

◇今回の発見
・尼崎藩の採種油の奨励。天明の飢饉に藩の救済措置などが目を引く。安富の狭戸・塩野・植木野・三坂は安永6年(1777)より幕末まで尼崎藩領であった。
・飢饉や大火の記録とともに、この塩野・狭戸の両村は寛永7年(1854年)の南海大地震の大被害の記録が残る。その歴史に無関心であってはならない。災害は忘れた頃に必ず起きるのだから。

※宍粟の逸話「お万の滝」悲恋伝説をご覧下さい。
http://shiso-sns.jp/blog/blog.php?key=9538
※山崎断層について (参考)
http://fd.city.shiso.lg.jp/yamasakidanso.htm

「E-宍粟」支援隊“そーたん’s” 

▼安富町地図 ▼塩野出土の古銭(町史より)

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Re: 塩野六角墳
【返信元】 塩野六角墳
2010年04月11日 01:13
六角形は珍しいですね。
考古学は大好きで、いろいろ古墳を見てきましたが、既に火葬されてる時代のもののようですね。当時の仏教の普及からすると、相当に高位の方の古墳なのではないでしょうか。石積みなどを見ても、さすが先進地帯と思えます。辺境である東国では、こんなに立派な終末期の横穴古墳には、めったにお目にかかりません。
塩野六角墳
【返信元】 地名の由来「塩野・狭戸」
2010年03月31日 10:03
 国道29号線から安富塩野の西山麓に「塩野六角古墳公園」という表示が見えます。この六角古墳を紹介します。

■塩野六角墳(しおのろっかくふん)

 南流する林田川右岸の丘陵の屋根上、標高150mに位置する。塩野六角古墳として県指定史跡。安富町では古墳は三基が知られているだけで、その1つの当古墳もかつては径10m程度の小古墳と見られていたが、平成2年から同3年にかけての調査によって六角形の墳丘をもつ全国的にも珍しい古墳であることが判明。調査後に塩野六角墳と命名された。

 古墳は、墳丘の背後に上縁幅1.3m~1.9mの溝を掘って区画されているが、墳丘は大部分が流失し、石堂が露出する状態であった。しかし、裾をめぐる1、2段の外護列石が比較的よく残っていたので、六角形の輪郭をたどることができた。列石は墳丘の南半部、すなわち谷側に用いられたらしいが、山側でも稜角にあたる位置に角礫を1、2段つんで目印としている。墳丘の大きさは稜角間の長さ約7.1m、一辺の長さ約6.8m~7.0m。主体の横穴式石室は南北の稜角の方向に主軸を置き、奥壁の位置は左右の稜角を結ぶ線に一致する。無袖式で前長約4.4m、奥の幅約0.7m、開口部の幅約1,1m、奥壁の現高約1.35m。奥から約2.2mの範囲に数個の扁平石を置いて棺台としているが、天井部は残っていない。遺物はわずかで、須恵器長頸壺1・杯2・土師器杯1を残す。

 築造年代は7世紀後半、すなわち古墳終末期で、新たな墳形として八角形・六角形の多角形墳が現れる。現時点での六角形墳は岡山市津高奥池3号墳と併せて二例が知られているにすぎない。なお築造プランには両者とも高麗尺が用いられていたらしい。
                「兵庫県地名Ⅱ」より

ことば
高麗尺(こまじゃく):大宝令制定以前に朝鮮半島から伝わった尺。主に測地用に用いられた。令の大尺に当たり、曲尺(かねじやく)の一尺二寸に当たる。
 古くからの言葉で、「こましゃくれる」、「こまちゃくれる」という子どもの大人びたしぐさや物言いに使われるこの言葉は、高麗尺から来たとも言われている。

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▼塩野六角墳全景   ▼古墳案内板  ▼塩野六角墳