宍粟の地名(由来)の「地名の由来「安志・長野」」
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地名の由来「安志・長野」
【閲覧数】2,589 【マップカテゴリ】安富町(現姫路市)
2010年03月17日 16:51
今回は、「安志・長野」(安富町安師地区)をとりあげます。

■安志(あんじ)
 林田川上流域の谷平野。地名は「和名抄」の安師(あなし)郡に始まるが、原義には諸説あるも北西風をいうアナシに語源を求めるのが最も妥当で、冬期西方の鞍部安志峠から厳しく吹き降ろす北西風に由来すると解される。「風土記」安師里の地名起源説話に出る安師(比売)神は風神であり、アナシが転訛したアンジになった。

 因幡国への道が南北に通り、山崎断層に沿って東西に走る道が合流する交通の要地で、飾西郡前之庄(夢前町)へ2里15町29間半、山崎山田町(山崎町)へ1里11町8間の距離にあった(文政4年伊能忠敬興地実測録)。寛文4年(1664)の山崎藩主池田恒元宛の領知目録に安志町とみえ、町場的様相を帯びていた。享保元年(1716)以降、安志藩陣屋が置かれていた。

 集落の東に条里遺構が見られる。平安末期に加茂別雷社領安志荘が立荘され、分社安志 茂神社が創建された。地内字竜宮は竜神、才ノ元は才(塞)神の小祠、宮ノ谷は加茂明神社、市場は中世の市場であったこと、字当田は藤田とも書き遠田の当て字で遠い所、大栗の栗は刳の当て字で河岸がおおきく刳(えぐ)れていたこと、高良谷は谷に石が多いのによる地名。

 教蓮寺境内にある御真影灰塚の銘文および由来書(教蓮寺文書)によると、天明6年(1786)5月4日に大火で民家の半数近くが焼失とある。

 神社は賀茂神社。安志荘の総社で、安志谷12カ村の氏神三社の一社。慶長検地では畑2反が除地とされた。町方には天満宮・竜宮社・天満荒神三社があった。浄土真宗本願寺派円徳寺・教蓮寺のうち、前者は慶長16年に開基浄意が建立。後者は天文9年(1540)ない開基行順が建立。安志藩小笠原氏の菩提寺である臨済宗大徳寺派法性寺の墓地には藩主の二代長逵と五代長武の墓がある。安志藩が建立した真言宗醍醐光久寺は※国指定重要文化財の木造不動明王立像と絹本著色の迦諾伐蹉尊者(かなかばつさそんじゃ)像・注茶半托迦尊者(ちゅだばんだかそんじゃ)像の二幅を所蔵。前者は平安期、後者は南北朝期の作という。
 明治6年洪化小学校・文化小学校設置。同9年仰化・洪化・文化などの各小学校を統合し、旧藩主邸に明倫小学校を設置。

■長野(ながの)
南流する安志川(現林田川)の両岸を占め、集落は右岸に立地する。地名は、水田地帯がかつて南北に細長い野であったことに由来する。奈良県斑鳩町の法隆寺が所蔵する文明11年(1479)8月10日の年紀銘をもつ食堂鰐口(わにぐち)銘に「播州宍粟郡安志荘之内 野村貴布禰社」とあり、この鰐口は安志荘野村所在の貴布禰(きぶね)神社につられていたものである。現在の安富町長野で林田川支流と安志川をのぶら河(ご)と俗称し、近世・近代の資料は安志川を野村川とする(旧宍粟郡役所文書など)。

 現在長野には長野加茂神社が祀られているが、銘文からは元来京都上賀茂社の摂社である貴船神社(現京都市左京区)と同名の神社があったことがうかがえる。現在の林田川が水量の乏しい川であることから水神である貴船神社を勧請し、のちに社号を加茂神社と改めたのであろう。浄土宗本願寺派真光(しんこう)寺があり、天正9年(1581)の建立、開基は空心。真光寺山門は旧安志藩主邸表門。

※今回の発見
・安志の中心から、前之庄、山崎までの実測が伊能忠敬の測量記録に残る。山崎にその一行が来たときの古文書多数が庄屋宅から発見され、解読されている。その内容については、何かの機会に報告したい。
・長野加茂神社は、水量の少ない林田川に水神を祀る京都貴船神社を勧請したというつながりがあった。


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▼安富町地図 ▼光久寺蔵の文化財 ▼長野加茂神社

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Re: 安志藩陣屋跡
【返信元】 安志藩陣屋跡
2010年03月24日 11:32
>タケネットさん、

「安志藩陣屋跡」面白かったです。ありがとうございました。

うちのじ様の話では、享保年間に小笠原が改易をのがれて
安志藩に移封されたのに従って、中津から付いてきたと
言っていましたね。 今回お陰様で 1716 年 10 月まで
分かりました。 ありがとうございました。 
役職は ’つけ ’家老といっていました。 くっついて
きたからそう言うのでしょうか。

家老が逃亡したとあるのも面白いですね。 小笠原家臣団の
墓地に藩主小笠原貞孚と共にあるので、多分、藩に残った方に
いますね。

それから、城もない、城下町もない、田んぼばかりじゃネーか
と言って、江戸近辺に移して欲しいと願い出たという話も面白い
ですね。

安志小笠原藩で伊和神社本殿を建てたという話を聞いていま
した。 再建費用を寄進したということは、全額ではないかも
知れませんね。

ありがとうございました。




安志藩陣屋跡
【返信元】 地名の由来「安志・長野」
2010年03月18日 14:46
安志藩陣屋跡

 五庵にあった安志藩の陣屋。享保元年(1716)9月に備前中津藩主小笠原氏長邕が6歳で没し、無嗣廃絶となるが、祖先功労のゆえをもって同年10月その弟小笠原長興は一万石を与えられ、安志に移されて立藩した。陣屋は安志村五庵に置かれ、幕末に至った。

 藩主は、長興・長逵・長為・長禎・長武・棟幹(貞幹)・小笠原貞孚と続き、領村は宍粟郡内18カ10村・佐用郡内10カ村・赤穂郡内18カ村の計1万石が三郡に散在していた。安志藩の職制は家老・中老・用人・番頭・奏者番・馬回り・物頭・小納戸・供頭・小姓・結衆・徒士・組小役人・足軽など。

 享保3年(1718)陣屋内に学問所を開設、弘化2年(1845)明倫堂と改称。寛保元年(1741)にはのちに孝子として幕府から表彰される稲垣浅之丞隆秀(字は子華)を教頭に招いている。

 天明7年(1787)林田藩百姓一揆鎮圧のために出兵。文化元年(1804)には安志掛屋不正事件が発覚。文政5年(1822)藩札を発行。安政2年(1855)藩士20余人の集団立退き事件が発生。なお、立退き事件は藩財政をめぐる藩士二派の争いから嘉永5年(1852)に百姓一揆が発生。幕府による安志藩取調べの際に陰謀の発覚を恐れ家老らが逃亡したものと推測されているが(安富町史)、原因・経過などは未詳。

万延元年(1864)藩主 棟幹が豊前小倉藩主となったため、嗣子の貞孚が藩主となった。文久3年(1863)から元治元年(1864)には大阪市中警護のため出兵。同年の第一長州戦争、慶応2年(1866)の第二次長州戦争の際には豊前国小倉へ出兵している。なお、文久2年(1862)の播磨一宮伊和神社の本殿再建の際には藩主が寄進を行った。明治2年藩主貞孚が版籍奉還を申請、安志藩知事となるが、同4年の廃藩置県で免職となり、安志藩は安志県となった。
(「兵庫県の地名」より)


ある日突然、安志村が陣屋町に

 時は享保元年(1716)10月、街道沿いに農家と若干の商家のある安志村にある日突然、大名が居住する「陣屋町」になった。
 藩主は、小笠原長興、遠く豊前国(大分県〉中津からの国替えである。元は中津藩8万石であったのだが、よい後継者に恵まれず、行跡悪く、早死などがあり、4万石からさらに1万石の減知となり、本来は、無嗣断絶、改易となるところが、先祖の功績に免じて断絶・改易を免れ、遠隔の山地へと移封となった。しかも無城の地である。
 安志藩成立後も、江戸近辺及び城主格待遇を幕府に願い出ていたという。
 無城をいやがる例として、寛永17年(1640)岸和田城主から、播州山崎に移封となった松平(松井)康映が、6万石に変わりがないとはいえ、無城の地への所替えは承知できないと拒否の態度を示したのと併せ考えると、家老職以下家臣は無城の地への転封を無念に思ったであろう。 (安富町史より)
               

「E-宍粟」支援隊“そーたん’s” 

▼安志藩陣屋絵図(1803) ▼廃藩当時の陣屋絵図