宍粟の地名(由来)の「地名の由来「生栖・深河谷・西深」」
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地名の由来「生栖・深河谷・西深」
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2010年02月05日 11:54
今回は、「生栖・深河谷・西深」(一宮町下三方地区)をとりあげます。

■生栖(いぎす)
揖保川下流左岸に位置し、集落中央部を支流築谷(つきだに)川が流れ、合流点南部に平地が広がる。地名由来は、生栖の「生」の「いぎ」と発音するのは事の始まりを意味し、三方の谷の始まる地に立地することからといわれる。栖は、住み処(か)、住んでいる所の意。

【近世】生栖村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領となり幕末に至る。
 当村より上流の揖保川流域は三方谷(三方郷)と称され、当村はその際南部に位置していた。
文政8年(1825)12月、三方谷18か村の※小前百姓は惣氏神御形神社の鐘を合図にするなどして決起し、26日に庄屋の福野村七兵衛宅・七太夫宅および公文村の源七宅へ打毀(うちこわし)を行った。原因は凶作にもかかわらず七兵衛が高値で米を売却し、七太夫・源七は他国へ多くの米を売りさばいていたためという。打毀は三方騒動といわれた(以上、同年「深河谷村百姓願書」・同9年「深河谷村過料請書」土居家文書など)。この騒動に当村の者も参加、捕獲者一人を出し、村に過料銭も科せられている(一宮町史)。
 ※小前百姓(こまえひゃくしょう):一般百姓のなかでも土地を持たない弱小で格の低い百姓をさす。

 築谷川上流の滝に昔から鰻が住み、旱魃(かんばつ)の際にこの鰻に酒を飲ませて祈ると雨が降ったと伝える。
 産土神は大歳(おおとし)神社。秋の祭礼では勇壮な獅子舞が現在でも続けられている。明治22年下三方村の大字になる。

【近代】生栖 明治22年から現在の大字名。昭和51年の抜山(ぬけやま)崩れにより大被害を受けた。

■深河谷(ふかだに)
揖保川上流右岸に位置し、支流深河谷川流域と合流点南部の平地を主とする。地名は、奥深い谷間を流れる深河谷川に由来する。慶長国絵図に「谷村」とみえ、その北西の「池のかいつ」は現在の深河谷内池ノ河内(かいち)であろう。

【近世】深河谷村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領、明和6年(1769)尼崎藩領、文政11年(1828)幕府領となり幕末に至る。
 神社は、池王神社。同社は長寿の神と伝え、秋の祭礼には伝統の獅子舞が現在も奉納されている。伝統行事の川スソ祭は、深河谷川と揖保川の合流点に臨時の堂を建て祭礼を行う。近隣では当地と河原田のみに伝わる特色のある行事。明治22年下三方村の大字になる。

【近代】明治22年~現在の大字名。はじめ下三方村、昭和31年からは一宮町の大字。


■西深(にしぶか)
揖保川上流右岸。地名は、揖保川右岸(西岸)のかなり奥深い、細長い地域であることによる。

【近世】西深村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領。明和3年(1766)頃から寛政3年(1791)頃まで三日月藩領地(西深区有文書)、以後幕府領として幕末に至る。明治22年下三方村の大字になる。稲は早稲で裏作は、麦、畑作は五穀のほか蕎麦・煙草など。
 文政8年(1825)の三方騒動に当村から参加したものがあり、捕縛者二人。このとき村役人が大坂谷町代官所(現大阪市中央区)に出張し、当村に過料銭も科されている(一宮町史)。
 産土神の御武(みたけ)神社は安産の神で、古来出産による死亡者はないと伝える。秋の祭礼には伝統の獅子舞がある。

【近代】西深 明治22年~現在の大字名。はじめ下三方村、昭和31年からは一宮町の大字。昭和51年の抜山崩れで大被害を受けた。

◇今回の発見
・難解な読みの地「生栖」、生をいぎと読むのは、山崎町蔦沢谷の入口にある生谷(いぎだに)と同じ。
・生栖・深河谷・西深には、獅子舞などの伝統行事が今も息づいている。
・文政期(1818~30)は、全国的に百姓一揆・村方騒動(一村単位の騒動)が頻発しはじめた時期であり、この打毀し「三方騒動」もその地方版ということになる。


※宍粟の逸話 一宮町生栖にある「蛇地蔵尊」をご覧ください。
http://shiso-sns.jp/blog/blog.php?key=10411

※今日のげん木1本「一宮 深河谷池王神社のアカガシ」をご覧ください。
http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=6294&…;bbs_id=94

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書き込み数は3件です。
[ 日付順 ] [ 投稿者順 ]
深河谷小字配置図
【返信元】 地名の由来「生栖・深河谷・西深」
2011年10月17日 11:40
深河谷(ふかだに)の小字配置図をUPします。「一宮町小字図地名集」より

●縄文時代・古墳時代
各時代の土器が発見されています。
●江戸時代
田57石余り、畑49石余り。
寛文~延宝年間(1661~81)は田4町5反余り、畑7町7反余り、家数27、人数138。
●明治時代
明治14年(1881)の戸数51・人口261。

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▼小字配置図      ▼小字(読み)一覧
西深小字配置図
【返信元】 地名の由来「生栖・深河谷・西深」
2011年10月14日 10:11
西深(にしぶか)の小字配置図をUPします。「一宮町小字図地名集」より


●江戸時代
田148石、畑44石余り。(正保郷帳)
寛文~延宝年間(1661~81)の田8町余り、畑8町余り、家数34、人数202。
●明治時代
明治14年(1881)の戸数48・人口248。

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▼小字配置図      ▼小字(読み)一覧
生栖小字配置図
【返信元】 地名の由来「生栖・深河谷・西深」
2011年10月13日 10:42
生栖(いぎす)の小字配置図をUPします。「一宮町小字図地名集」より

●古墳時代
竪穴住居跡が確認されています。
●鎌倉時代
掘立柱建物群が確認され、中国製の陶磁器類などが出土し、中世の三方(東)庄に関連する遺構と見られています。
●江戸時代
田305石余り、畑105石余り。(正保郷帳)
寛文~延宝年間(1661~81)の田17町4反余り、畑10町1反余り、家数39、人数216。
●明治時代
明治14年(1881)の戸数54・人口285。

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