宍粟の地名(由来)の「地名の由来「下野田・上野田・能倉・東河内」」
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地名の由来「下野田・上野田・能倉・東河内」
【閲覧数】4,689 【マップカテゴリ】一宮町
2010年02月04日 13:12
今回は、「下野田・上野田・能倉・東河内」(一宮町染河内地区)をとりあげます。

■野田(のだ)
河内川下流域。染河内川流域。地名は、河川によって堆積した土砂からなる原野を開発して耕地化したことによると思われる。

【近世】野田村 江戸期の村名。播磨国宍粟郡のうち。「正保郷帳」では野尻村、「天保郷帳」では「古ハ野尻村と申し候」と肩書きされて見える。明治期になると上野田村・下野田村に分村して把握されるようになる。はじめ宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領、元禄10年(1697)幕府・三日月藩領の相給、享保元年(1716)からは三日月藩・安志藩の相給。元禄10年(1697)三日月藩成立時に幕府領分を野田村、のち安志藩成立により、上野田村と称するようになったと思われる。

 寺院は、天正元年(1573年)年浄蔵法印開基と伝える真言宗松寿山西林寺。また同寺が管理する虚空菩薩に平安末期の作という木造虚空蔵菩薩像がある。明治初年上野田・下野田になる。

【近代】上野田・下野田 両村とも明治22年~現在の大字名。はじめ染河内村、昭和31年からは一宮町の大字。

■能倉(よくら)
染河内川中流域に位置している。枝村としてかな山がある(宝永5年(1708)「宍粟郡誌」)。地名は、谷間の奥まった洪積土壌の小盆地である地形に由来する。中世には染河内庄に含まれ、四蔵と記された。
 貞治元年(1362)12月22日の政秀神領林沢田預り状(伊和神社文書)に「在所四蔵」の林沢田三段がみえる。これは一宮社(伊和神社)の神領で、大井祝の管理下にあった。
 永享6年(1434)10月20日の四郎三郎神田等預り状(同文書)からは、かな山四郎三郎の領地が「染河内四蔵内」にあったことが知られる。政秀とかな山四郎三郎はともに抱分(給分地)として土地を預けられていた。明応4年(1495)6月9日の九郎衛門田地買状(同文書)によれば、「かな山」にある一宮社の神田を購入した染河内の藤村九郎右衛門が年貢500文を懈怠(けたい)なく納めると大井祝に約束しており、かな山は江戸時代の枝村かな山をさすのであろう。

【近世】能倉村 江戸期~明治22年の村名。慶長国絵図に「横倉村」と見える。播磨国宍粟郡のうち。はじめ宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領、享保元年(1716)からは安志藩領。農作物に害をなす猪や鹿などの野獣防護策として鉄砲の保有が許され、正徳4年(1714)の猟師鉄砲御改め差出状によれば、幕府代官後藤覚右衛門が鉄砲5挺の使用許可を当村の5人に与えている(一宮町史)。
 産土神の庭田神社は、「延喜式」神名帳にみえる宍粟郡七座のうちの「庭田神社」に比定される。社伝は成務天皇甲申年の鎮座とするが、資料的根拠はない。庭田神社は染河内谷全域の産土神としても祀られてきた。また同社の近くに湧き出る泉は「宮居の泉」として親しまれている。明治22年染河内村の大字となる。

【近代】能倉 明治22年~現在の大字名。はじめ染河内村、昭和31年からは一宮町の大字。

■東河内(ひがしごうち)
染河内川の本流本谷川およびその支流中坪川・山田川筋に沿って開けた集落。地名の河内は、山中の川が作り出した小さな平野・平地をさし、この地形が生み出したものと考えられる。

【近世】東河内村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。東川内村とも書いた。はじめ宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領、享保元年(1716)からは安志藩領。
 天保12年(1841)の救済請書によれば飢饉のため当村の36軒・88人が飢人・極難渋人として藩から救済を受けている。

 当村の製茶は特記すべき生業で、染河内谷での製茶は宍粟の経済事項を集めて作られた山崎往来(中村家文書)のなかで「染河内茶」として取上げられている。宝永5年(1708)の「宍粟郡誌」に「其の味は染河内谷美なり」と記される。
 産土神は能倉の庭田神社。山神社がある。寺院は、寛文11年(1671)石賢法印開基と伝える真言宗慈光山観音寺。ほかに、地内中坪に観音堂、本谷に薬師堂がある。明治22年染河内村の大字になる。

【近代】東河内 明治22年~現在の大字名。はじめ染河内村、昭和31年からは一宮町の大字。昭和30年真言宗観音寺に一農民が私財を投じ※三国各霊塔を立てた。昭和7年※日城神社を築造。同59年観音堂の木造聖観音菩薩立像と室町初期の作である薬師堂の木造薬師如来立像が町文化財に指定された。

◇今回の発見
・難解の読みの能倉。四蔵、横倉とも書かれていたことがあるという。
・染河内地区には平安末期以降の古い三体の菩薩・如来像(市指定文化財)が補修を受けながら大事に保存されてきた。
・東河内では、天保時代、飢饉で餓死者が出ている。天保の飢饉は1833年から39年の6年の長期にわたり東日本を中心に大飢饉をもたらしたとあり、飢饉が収まったあと2年後の1841年に救済を受けていることになるが、なんとかならなかったのだろうか。播磨地方の飢饉の状況はどうだったのだろう。


※今日のげん木1本「一宮 庭田神社のケヤキ」をご覧ください。
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※お酒の起源「ぬくゐ川とお酒」一宮町能倉(庭田神社)をご覧ください。
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※西林寺奥の院虚空蔵堂(上野田)をご覧ください。
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▼染河内地区地図 ▼三体の菩薩・如来像 ▼江戸期の領地の配置

書き込み数は7件です。
[ 日付順 ] [ 投稿者順 ]
2011年10月06日 10:06
東河内(ひがしこうち)の小字配置図をUPします。「一宮町小字図地名集」より

●江戸時代
正保郷帳によれば、田344石余り,畑238石余り、寛文~延宝年間(1661~81)の田18町5反余り、畑32町6反余り、家数113、人数771。
●明治時代
明治14年(1881)の戸数179・人口764人。

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▼小字配置図     ▼小字(読み)一覧
2011年10月05日 09:42
能倉(よくら)の小字配置図をUPします。「一宮町小字図地名集」より

●江戸時代
正保郷帳によれば、田261石余り、畑163石余り。寛文~延宝年間(1661~81)には田14町6反、畑16町余り、家数56、人数361。
●明治時代
明治14年(1881)戸数84、人口361。

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▼小字配置図     ▼小字(読み)一覧
2011年10月04日 11:14
上野田の小字配置図をUPします。「一宮町小字図地名集」より

●江戸時代
江戸時代初期には、「野尻村」、江戸後期には「野田村」とあり、その一部とみなされています。元禄10年(1697年)三日月藩領分を下野田村、幕府領分を野田村とし、のち享保元年(1716)安志藩成立により幕府領分は上野田村と称されたようです。
 元禄郷帳には野田村634石余りとみえ、旧高旧領取調帳では、安志藩349石余り、三日月藩領285石余りとあります
●明治時代
明治14年の戸数45・人口200、田15町余り・畑3町余り。

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▼小字配置図   ▼小字(読み)一覧
2011年10月03日 11:44
下野田(しものだ)の小字配置図をUPします。「一宮町小字図地名集」より

●江戸時代
 江戸時代初期には、「野尻村」、江戸後期には「野田村」とあり、その一部とみなされています。元禄10年(1697年)三日月藩領分を下野田村、幕府領分を野田村とし、のち享保元年(1716)安志藩成立により幕府領分は上野田村と称されたようです。
 元禄郷帳には野田村634石余りとみえ、旧高旧領取調帳では、安志藩349石余り、三日月藩領285石余りとあります●明治時代
明治14年(1881)の戸数36・人口205。田23町余り・畑1町余り。

※地名の由来「下野田」
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▼小字配置図   ▼小字(読み)一覧
「ホタルの里と虚空蔵菩薩」
【返信元】 地名の由来「下野田・上野田・能倉・東河内」
2010年05月20日 10:43
「ホタルの里と虚空蔵菩薩」をアップしました。

タケネットブログ
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2010年05月06日 13:33
三国各霊塔(さんごくかくれいとう)

 染河内地区福田の県道そばに立派な石の塔がそびえています。

 この三国各霊塔は、染河内村の田中政右衛門(まさえもん)が日本・韓国・中国の兵士の霊をとむらうため、自らの財産を費やして建立したものです。郷土や国を愛する気持ちの強かった政右衛門は、明治27・28年(1894・95)に起こった日清戦争で亡くなった日本の兵士たちの冥福を祈ろうとしました。同時に敵国とはいえ、韓国や中国の兵士も自分たちの国に報いようとする志にかわりはないとして、ともに忠魂の碑を刻むことにしたものです。 「いちのみやの歴史 一宮町歴史副読本」より

 明治29年、同村の法学士伊藤俊介(明治36年衆議院議員となる)にはかり、飯尾松之介を介し釈雲照律師に題名を請うた。律師はその義挙に感じ、三国各霊塔と題した。表の揮毫は枢密顧問官陸軍中将子爵鳥尾小弥太、碑文は岡本監氏撰、支那少陳の揮毫である。明治29年夏に竣工したが、政右衛門は工事半ばの30年10月病魔にたおれ、長男喜平に引き継がれた。31年4月18日、観音寺住職施主となり、郡内寺院住職有志の多数の参列によって行われた。総工事費7百余円で田畑6反歩を売ってこれに充てている。一農民の手によって行われた此の挙は明治年間にその類をみず、正に三国和平記念への大きな宝塔といえよう。(一宮町史)


※懐の深さというか心やさしい日本人が宍粟市にいたことは、誇りですね。古くは、敵国の兵士を弔ったものに、九州博多沖での元寇でおびただしい数の死者があり、鎌倉武士や元・高麗・漢の兵士を弔った供養碑が建てられてます。


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▼三国各霊塔   ▼三国各霊塔銘  ▼銘文
東河内の「日城神社」の由来 
【返信元】 地名の由来「下野田・上野田・能倉・東河内」
2010年04月14日 10:56
 江戸期のきびしい年貢の取立てと、それに追い討ちをかけるような災害や不作に、庄屋が藩主に年貢引下げの直訴をしたが・・・ 日城(ひしろ)神社に残る悲話


日城神社の由来  (一宮町東河内)

 寛永4年(1627)、本谷の庄屋日城善兵衛は、宍粟藩主池田輝澄に年貢の引き下げを直訴しました。幸い訴えは聞き届けられ、罪にも問われることなく許されました。彼は一刻も早く村に帰って伝えようとしましたが、大雨のため揖保川を渡ることができません。約束の時刻が過ぎ、村の同士は訴えが失敗したものと思って自決してしまいました。善兵衛は、これを聞いてなげき悲しみ、自らもあとを追って自害したと伝えられています。大正5年(1916)、善兵衛の徳に感謝するために日城神社が建てられました。   (「いちのみやの歴史・副読本」より)

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▼「日城神社」(福田公民館近く)