宍粟の地名(由来)の「地名の由来「塩山・大沢」」
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地名の由来「塩山・大沢」
【閲覧数】3,666 【マップカテゴリ】山崎町
2010年01月25日 10:46
今回は、「塩山・大沢」(山崎町土万地区)をとりあげます。

■塩山(しおやま)

千種川支流の支流志文川の上流域、播但中央山地南西部。

【近世】塩野村 江戸期~明治12年の村名。元禄(1688~1704)以前に銀山村を分村。慶長国絵図に「塩之町」「塩之村」
がみえる。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、播磨国宍粟郡のうち。元和元年(1615年)宍粟藩領、慶安2年(1649)年幕府領。明和6年(1769)尼崎藩領、文政11年(1828)幕府領となり幕末に至る。幕府領となってからは、同じ宍粟郡内の安志の塩野村(現安志の塩野村(現安富町)との混同を避けるため「三河塩野村」と 注記された。旧高旧領取調帳には西塩野村とみえ、幕末から明治初年の間に村名の改称があった。

【近代】塩山村 明治12年~22年の村名。宍粟郡のうち。塩野村と銀山村が合併して成立。

【近代】塩山 明治22年~現在の大字名。はじめ土万村、昭和30年からは山崎町の大字。旧銀山村では江戸期にも銀の採掘が行われたが、明治13年に開鉱されたし塩山銀山は鉱区10万6,000坪、銀・銅を産し、大正12年の1か年の採掘高は約1万4,000貫前後であった。(宍粟郡誌)。昭和に入って同山は次第に衰微し、現在は古い坑道跡が残る。


■大沢(おおさわ)

千種川の支流志文川の上流域、播但中央山地南西部。

【近世】大沢村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、元和元年(1615年)からは宍粟藩領、慶安2年(1649)幕府領、元禄10年(1697)からは三日月藩領。薬草の産地(宍粟郡誌)。神社は五社神社。寺院は、真言宗円通庵。明治22年土万村の大字となる。

【近代】大沢 明治22年~現在の大字。はじめ土万村、昭和30年からは山崎町の大字。

◇今回の発見:塩山は江戸期には塩野村とよばれていたこと。村内にあった銀山が昭和初期まで採掘が続いていたこと。
地名由来で、大沢は沢の意の山あいの峡谷川から来ていると思われるが、塩山(塩野)の塩はどこから来たのかわからない。
 
 
 
「E-宍粟」支援隊“そーたん’s”

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鉄の道 塩地峠(追体験)
【返信元】 地名の由来「塩山・大沢」
2010年05月14日 13:30
塩地峠について
 
 以前に千種町下河野(けごの)や山崎町大沢の地名の由来で、下河野と大沢の山道に塩地峠があるのがわかり、一度どんな所か、昔の人の追体験をしてみたいと思っていたところ、意外にも早く実現できた。先日(5月9日)大沢と塩山へ地域取材に行った時に、立ち寄った大沢万合の石沢商店で峠のことを教えてもらい、峠まで行くのにはそんなに時間はかからないということだったので、すぐ登ってみることにした。そのときの様子を書いてみました。
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大沢から塩地峠への道  鉄の道の追体験

 山崎町大沢の万合という所に峠の道標がある。ここから、左方向の志文川支流の小河内川を沿って進むと谷あいに十数軒の小河内(おおごうち)という集落がある。集落のはずれをさらに進み、杉林の中を1キロ程行った所に、小さな橋と地蔵を祀った社がある。橋の縁の石垣が、昨年の大雨で削られたままになっている。社の前に車を止め、歩き始める。道には轍(わだち)があり車が通っていたようだ。昔は牛馬の背中に重い荷物を載せあるいは、荷車を引っ張らせるために、道の勾配が一定に工夫されているのだろう、路面は荒れていたが、歩きやすい道であった。

 途中、真砂土のやわらかい土が崩れ、道路をふさいでいるところが1箇所あった。また、登る途中の左右の沢には、6年前の23号台風や昨年の大雨で無残な杉の倒壊があちこちに見られる。昔の江戸期から明治の始めまではコナラ等の自然林で覆われていて、今の山の光景とはずい分違っていたことだろう。この道は、谷川の音も聞こえず、鳥の声だけが聞こえる静かな所である。きっと夜間ともなれば、聞こえるのは自分の足音だけなんて、想像すると、夜は一人では無理だなと思いながら歩く。

 5月の好天日、歩くほどに汗ばみ、麓の自販機で買ったポカリを少しずつ補給しながら、歩くこと約30分。意外に早く目的の塩地峠に着いた。見晴らしのよい場所を期待していたが、そうではなかった。ただ峠周辺は日当たりがよく、ワラビがたくさん生えている。

 この峠に地蔵があったという。峠の向こうは下りになり、千種の下河野(けごの)につづく。見下ろせば、かなりの急斜面でジグザグコースのように思えた。近いうちに下河野の阿踏(あぶみ)からここまで登ってみようと思いながら、もと来た道を下る。

 帰りの道中、なぜこの峠が塩地峠と呼ばれたのかを考えながら下っていった。ここを通った馬引きの荷物は、行きは鉄や農産物を運んだとして、帰りの荷物は何だったのだろう。帰りも牛馬に相当の生活物資を運ばしたに違いない。きっとたたら師や千種谷や土万谷の村々に必要な生活物資、特に海産物ではなかったか、その中には塩なども多く運ばれたんじゃないか。で、そうであるならこの道は行きはアイアンロード、帰りは、ソルトロード(塩路)といえる。自分で納得しながら下った。登りと違って帰りの足取りは軽快だった。


■高瀬船の上りの荷物

 高瀬船の上りの荷物は何であったのか、「出石河岸の高瀬船」森本一二著を読むと、明治に入ってからの記録ではあるが、次のようなことが書かれていた。

 北脇村の船問屋、次郎平さんから須賀の長井傳四郎さん(長井家は江戸期の須賀の庄屋)への荷物の送り状に、網干吉備の肥塚商店の塩を、安志の店屋六軒への荷物であった。それも上り船に積荷全体で重さは660貫、石高で15・16石にもなる。一隻の船なのか数隻に分けたのかもしれない。塩は何に使ったのか、おそらく醤油や味噌の自家生産に、梅の塩漬け、塩の俵から落ちるニガリを集め、豆腐作りに使ったのだろう。長井家に残る荷物勘定帳にはほとんど後背地の安志谷の品物を扱っている。帳簿には大量に入ってくるものはやはり、塩と石灰であり、その他生活用品が見られる。 

 この記録は、千種鉄の屈指のたたら製鉄所天児屋鉄山は明治13年に閉山となった後のものではあるが、高瀬船の上りには多量の塩が運ばれていたことが、わかりました。

 江戸期の資料について調べてみる必要がありますが、塩地峠の鉄の道の帰りは、多くの塩と生活用品が運ばれていた可能性が出てきました。


「E-宍粟」支援隊そーたんs

▼地蔵の社から歩く   ▼途中                 ▼峠付近
千種鉄(タタラ)の通った塩地路 (その2)
【返信元】 地名の由来「塩山・大沢」
2010年05月13日 10:10
 千種鉄(タタラ)の通った塩地路 (その2) 

 塩地峠の想い出は、私の小学生の頃、母に連れられてよく千種町河呂(こうろ)の親戚に行ったことなど・・・・。加賀須の上の大沢本村との分かれ道を左に入り狭い岩を削った様な川巾だけの道、昔の人が名付けた石戸だ。少し行くと数軒の屋根が見えてくる。昔はどの家の屋根も茅葺きだった。家のあるのは数百mで、それよりは山林の間を約五尺か六尺位(2m位)の細い道であり、やがて野原のような茅場になっていたように思う。春はウグイスや山鳥、雉が鳴き、山桜がそこかしこに咲き、夏にかけて山百合やツツジ、山吹などの花が旅する人を楽しませていた。ダンジ(イタドリ)が大きく伸びていたり蕨(わらび)やゼンマイが大きく糞を広げ、その根元に遅出の小さいゼンマイが頭を出していたりしたものだ。秋にかけてはススキの穂が一斉に顔を出しその中に桔梗や萩が咲き、山芋を掘った穴が大きく口を開けていたり・・・。

 余り急でもない細道を登りつめると頂上に1間程の休み堂があり、板張りで中に何様が祀ってあったかは知りませんが、峠の茶屋ならぬ峠の休息所だったようだ。千種から来た者又は土方から行く者、又は帰る人たちが一服したり弁当を食べたり、時には雨宿りなどに喜ばれた事でしょう。内や外側の板には決して上手ではない面白い絵が書いてあったり、へのへのもへのやHな言葉の落書がしてありましたが、これも旅する人たちの疲れを癒す良薬であったんだなと思います。

 千種側に入ると又林の中に入り、遅咲きの椿が咲いていたり、向かいの山にはコブシの花が山桜と表に咲いていました。緩やかな山道で牛の糞があったり、破れた草履が捨てられていた。思い出すと懐かしい限りです。

 この夕タラの通った道を辿ると、加賀須の旧土方農協塩山支店の裏山の裾に、少しの問、昔の巾四、五尺位の道が残っておりました。田内好治氏の屋敷裏に大きな畑がありますが、その当時の宿場というのか、荷物の荷造りや休息や昼食等をする、現在の道の駅のような役割をする庄屋か問屋があったとの話です。大沢の谷の奥のツヅラロの西側にも旧道らしい所が少し残っていた様に思います。

 塩山(旧西塩野)より今出、土方そして葛根の矢野より塩田部落へ出て都多の村へと運び、都多村(鴬沢)を経て河東の出石の舟著場より高瀬舟で網干の港へ、又 引き返して網干方向より宍粟へと物資が運ばれたのですが、揖保川は明治に至るまで宍粟の経済を大きく支えてくれた河川であり、高瀬舟は太平洋や日本海、又瀬戸内で活躍した北前船にも劣らぬ働きをしていたのだと思います。

 千種より山崎への主要交通道路がなぜ葛根の矢野より塩田へそして蔦沢へ経由したのか?

 一つには切窓峠が険しくてケモノ道程度で牛馬での通行は不可能であったそうです。故赤松善之助氏の言葉によると三日月や三河方面への行き来は盛んだったが、山崎の方は余り重要視されていなかった様だとの事でした。

 二つには領主が異なっていた為だとの説もあります。矢野、塩田は安志領であったとの事で、これは青木の谷林氏の話です。(因みに青木以南は山崎領)


平成15年5月   谷井 伴夫

◇新たな発見
 千種鉄は塩地峠を越え、土万地区大沢へ運ばれそして、山崎出石へ運ばれたと言う認識はあったが、山崎までの具体的なルートは、地図で示したように大沢から葛根、そして、菅野地区塩田そして、蔦沢地区上牧谷を経由して出石へ運ばれた言うことを知り驚いた。切窓峠・菅野谷の道を使っていない。その理由も記されている。

 
▼鉄の運搬路      ▼社(元は峠にあったといわれる)
千種鉄(タタラ)の通った塩地路 
【返信元】 地名の由来「塩山・大沢」
2010年05月12日 13:44
塩地峠(しおちとうげ)のことについて

 山崎町土万(ひじま)地区の郷土史に詳しい山崎町塩山の谷井伴夫氏(85)の執筆の中から、塩地峠のことについて書かれたものを、本人の承諾のもとに紹介します。谷井氏は、戦前戦後の生活や地域の歴史の研究、日々の社会に対する思いを、人柄がにじみ出るあたたかい目線で今でも書き留められています。2回の連載で紹介します。
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千種鉄(タタラ)の通った塩地路 (その1) 


 西河内(にしごうち)の天児屋(てんごや)鉄山の夕タラが、河呂(こうろ)、本村、下河野(けごの)そして塩地峠を越えて土方地区の大沢小河内、次いで塩野(塩山)、今出、土方(ひじま)、葛根(かづらね)へ出ると、今度は東北に入って矢野越しで塩田部落、又 山を越し都多(つた)村へ、やがて南へ下って揖保川へ、出石の舟着場にて高瀬舟で網干港へ。揖保川では津山より瀬戸内海へと吉井川の高瀬舟のように、宍粟の産物の米、麦、薪、木炭など運び網干よりの帰り舟では、大阪や摂津方面の物資、海産物が宍粟の地に持ち込まれたそうですが、その中の一つが千種産の鉄でした。全国にも名の通った良質の鉄で島根県の出雲鉄と共に良い鋼が出来るので、刀やその他の武器、農機具、大工器具等に重用されたとの事です。

 その鉄(タタラ)と一緒に千種や鷹巣、小茅野、塩野などの木炭、薪、山のもの田畑のものも、お金か何かの物に替り農家の人を養った事でしょう。

 このような農産物、林産物は牛の背や人足や牛馬車で、塩地峠を越し山崎~瀬戸内~大阪や関東へと多くの人々と関わりながら運ばれた事でしょう。

 ここで考えて見たいのが、ナゼ塩地峠の山越しが利用されたのか。

 一つには千種より土方へは塩地を通るのが一番の近道だったから、そして鷹巣や小茅野、大沢と合流し易すかった。

 二つ目は千種~三河間には完全な牛馬が物を運ぶ道がなかった。千種~七野(ひつの)の小坂、三河船越の名目津和(なめつわ)、阿踏(あぶみ)橋より下流、三河~土方(八重谷(やえだに)峠などの難所が多くあった。「これは淡路正則氏の説による」。

 三つ目に、揖保川のような川の流れを千種川では利用出来なかった。流れも急で岩石が多く水面に出ているし、危険箇所が多すぎると私は思います。

(その2)につづく



「E-宍粟」支援隊そーたんs

▼塩地峠周辺の地図 ▼大沢万合にある史跡表示
大岩稲荷祭祀の起源
【返信元】 地名の由来「塩山・大沢」
2010年05月11日 13:31
※山崎町大沢の福井一男氏が地域に伝わる伝承を書き留めようと記された「大岩稲荷祭祀の起源」を紹介します。福井氏は、今年満91歳になられましたが、田畑の耕作や河川の清掃もされるまだまだ元気な方です。



大岩稲荷祭祀の起源

 大沢公民館から約200mほど北に行ったところ、県道のすぐ上に、お祀りされているのが 「正一位大岩稲荷大明神」 です。人々は大岩さんと呼び、大勢の方が信仰されています。このお稲荷様が祀られたのは昭和2年で私がまだ小学二年生の時でした。なぜこのお稲荷様をお祀りしたか、その謂われを私の覚えている範囲で書いてみたいと思います。

 新宮町の千本(せんぼん)に大川稲荷さんがあるのは、皆様もご存じと思います。ここのお稲荷さまの当時の女神主さんに神様より次の様なお知らせがありました。

 「福島与左衛門重則の霊が雨乞岩の上に留って帰れないでいる。彼は元鳥取藩士であるが、所用あって当地に赴き、この地で病魔に犯され享保2年(1717)2月24日死亡した。然し武士の魂である刀と鎧兜がここの近くに残っているので霊が動けないでいる。この刀と鎧兜を御神体としてお祀りすれば、霊験灼かな神様となり、諸々の願い事を叶えてくださるであろう。」とのことでありました。

 そこで当時の大沢部落民一同が挙って現在の地にお祀りする事とし、件の刀と鎧兜を近くの農家から寄付頂き、これを御神体として、更に京都伏見の稲荷山の大岩稲荷の分神をお迎えして盛大にお祀り込みの祭礼を致しました。

 その後、毎年春・秋二回、お祭が村を挙げて行われ近辺の町村からも大勢のお詣りがあり屋台店も並んで賑やかな祭りが長年続いたのですが、時代の移り変わりと共に訪れる人も少なくなりました。それでも毎月1日と15日には村の人達が大勢参っておられます。

 今も御神体の刀と鎧兜は、本殿にお祀りしてあります。尚、お堂横手には、福島与左衛門重則の碑が建っています。皆様も是非度お参りしてください。


平成二十一年吉日

宍粟市山崎町大沢 福井一男(九十歳)


「E-宍粟」支援隊そーたんs

▼冊子       ▼大岩稲荷と塚    ▼雨乞岩(近くにある)