宍粟の地名(由来)の「地名の由来「中野」」
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地名の由来「中野」
【閲覧数】1,268 【マップカテゴリ】山崎町
2010年01月19日 11:58
今回は、「中野」(山崎町蔦沢地区)をとりあげます。

■中野(なかの)

揖保川の支流伊沢川の中流域。地名は、伊沢川中流以北の都多谷(都多保)と称する地域の中央部に位置することによる。

【近世】中野村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。江戸期「都多中ノ村」とも書いた。慶長播磨国絵図(天理図書館蔵)では、「末友」と見える。当村内に「実友株」と呼ぶ地があり当村の別称と思われる。はじめ姫路藩領、元和元年(1615年)からは山崎藩領、延宝7年(1679年)からは幕府領(林田藩・姫路藩預り地、京都代官所支配、三日月藩預り地、大坂・生野・倉敷各代官所支配)。地内の隣保名の一つに紙屋が現存し、紙漉きが行われていた名残と思われる。紙漉き業3軒。

元禄6年(1693)の宍粟郡村々反別郡玉帳(田路家文書)に鉄砲が10挺(8挺が猟銃用。2挺は獣威し用)とある。当村内には正徳元年(1711)と明和7年(1770)の高札が残っている。正徳元年の高札は防火防止や火事場窃盗禁止、などの高札と、明和7年(1770)の百姓騒擾禁止の高札(ともに田中家蔵)が残る。

神社は、桓武伊和神社(伊和大名神)。同社境内の小堂に大日如来・広目天・持国天の三体の木像があり、今は朽ち果てているが、平安時代の作ともいわれている。同社の鐘楼にある梵鐘は宝暦11年(1761)に金屋村の長谷川孫兵衛藤原吉正と長谷川五郎五郎兵衛藤原家次が鋳造したもので、鐘名には桓武天皇がこの地で死去したため3カ村(上ノ村・中野村・下野村)の氏神として奉斎したとある。神社裏山(宮山)は天皇の墳墓であるといわれ、天皇に従ってきた臣下の者がこの地に住んで、中務・中司・大友・宇田などの姓を称するようになったと伝える。

寺院は、天文10年(1541)開基と伝える真言宗見照山徳王寺、同12年兆円開基とも正保4年(1647)静空策円開基とも伝える浄土宗西山派願立山極楽寺(山崎町史)。浄土宗寺院とされる光明庵派当地では庵寺と称され、安政2年(1855)の梵鐘銘に光明庵とみえる。

明治6年極楽寺に都多学校開校。同9年桓武伊和神社へ移転。同15年伊水小学校分校となり、同19年都多簡易小学校となる。同22年蔦沢村の大字となる。

【近代】中野 明治22年~現在の大字名。はじめ蔦沢村、昭和30年からは山崎町の大字。

◇今回の発見:桓武伊和神社の伝説は、興味深い。この神社の平安期と思われる三体の木像といい、桓武天皇がこの地で没し、裏山の墳墓が天皇の墓であるという。さらに臣下の姓名の名残などの伝承が残る。 ※マップは、桓武伊和神社


「E-宍粟」支援隊“そーたん’s”


▼蔦沢地区の地図 ▼桓武伊和神社 ▼素朴な顔の三体の木像 

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