宍粟の地名(由来)の「地名の由来「岸田・野々上」」
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地名の由来「岸田・野々上」
【閲覧数】1,173 【マップカテゴリ】山崎町
2010年01月06日 10:53
今回は、「岸田・野々上」(山崎町河東地区)を取り上げます。

■岸田(きしだ)

揖保川中流左岸に位置する。地名の由来は、沖積地の耕地化以前は、河岸段丘上が主たる農地であったため、岸(段丘)の田という意で命名されたと伝える。天正8年(1580年)頃と推定される正月28日の丹波守澄忠書状は「五ミやう・〈河東〉とう田・〈川西〉いかは・いせ・石作、此外所々惣御門徒衆中」に宛てられており、これは石山合戦の際に石山本願寺から宍粟郡の真宗門徒に寄せられたものである(願寿寺)。このうち、とう田は現在岸田の小字名として残る。

【近世】岸田村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。慶長国絵図に村名が見える。神社は、八幡神社。同社は文政11年(1828年)隣村五十波村から勧請したという。寺院は、浄土真宗本願寺派法流山明宝寺。同寺は天文8年(1539年)正円開基と伝え、証如裏書の開基仏がある(郷中古事録)。当村には天保5年(1834年)まで大庄屋をつとめた久保忠中兵衛がいた。明治6年岸田学校、明治9年博文小学校開校。同校は当初明宝寺にありのち八幡神社に移り、さらに神谷村へ移転。良米および薬草の産地である。

【近代】岸田 明治22年~現在の大字名。はじめ河東村、昭和30年から山崎町の大字。昭和24年字松ノ本に河東・神野両村の組合立神河中学校(のち町立)設置。昭和35年簡易水道が敷設され、その工事中に神河中学校前から壷に入った小銭約35kgが出土した。昭和54年度から数回に分けて圃場整備が実施され、農道新設、保喜橋・五助橋の架橋、中川(東川)河川敷の耕地化などが行われた。

■野々上(ののうえ)

揖保川中流左岸に位置する。地名の由来は、揖保川左岸の農耕地のうち最も北(上)であることによるという。

【近世】野々上村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。慶長国絵図に村名が見える。はじめ姫路藩領、元和元年(1615年)山崎藩領、延宝7年(1679年)幕府領、京都所司代・姫路藩預り地・大坂城代堀田氏領を経て、明和6年(1769年)から摂津国尼崎藩領。当村北端に釜が岨(そ)と呼ばれる出石舟着場への近道があったが、寛永8年(1631年)田井村に渡し舟ができるとともに釜が岨への道路修理費が当村の過重負担となり、文政6年(1823年)現実に「物資輸送に利用している今宿村・中広瀬村の問屋を相手取り費用負担の訴訟を起こした。神社は、天保元年五十波村から勧請した八幡神社。寺院は、真言宗東雲寺・同宗西雲寺・浄土宗永尾山陸雲寺。東雲寺は天文23年(1544年)宗専開基、西雲寺は永禄元年(1558年)長祐開基と伝えるが、のち両寺とも廃寺となった。陸雲寺は千葉兵庫助(天誉)開基、創建は明暦3年(1657年)とも正徳元年(1711年)ともいう。(山崎町史・河東村誌・宍粟郡村々反別郡玉帳)。同寺に大野善太夫が寺子屋を開いた。明治22年河東村の大字となる。

【近代】野々上 明治22年~現在の大字名。はじめ河東村。昭和30年から山崎町の大字。昭和25年1町8反を開墾。昭和39年藤田半次郎が養蚕方法を改良し、翌年養蚕共同飼育組合を設立。昭和36年簡易水道落成。昭和46年釜が岨道路が廃され、野田橋が架橋されると、橋詰に鉄工所・製材所倉庫・化成工場が進出した。昭和47年河東頭首工完成。昭和54年補助整備完了。

◇発見:河東地区は、各村々ではやくから家塾、寺子屋などが開設され、教育に力をいれていた。明治の初めには小学校が設立される教育基盤ができていたようです。


「E-宍粟」支援隊“そーたん’s” 

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