宍粟の地名(由来)の「地名の由来「神谷・矢原」」
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地名の由来「神谷・矢原」
【閲覧数】1,886 【マップカテゴリ】山崎町
2010年01月05日 10:27
今回は、「神谷・矢原」(山崎町河東地区)を取り上げます。

■神谷(こうだに)
揖保川中流左岸に位置する。

【近世】神谷村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。石作庄のうち。年月日不詳の播州国石作庄・段銭等算用状(久我家文書)に「神谷」の名主の名がみえ、河谷とも記されている。同算用状には「橘村」や「橘山田」がみえるが、現在の神谷地区に立花・山田の小字名が残り、揖保川の河岸段丘上の北側に山田、中央から南にかけて立花が位置する。慶長国絵図に村名がみえる。神社は、八岡(はちおか)神社。当村には、大庄屋栗山儀右衛門がいた。同氏宅の長屋門などが残っている。幕末栗山孫十郎によって寺子屋が開かれた。明治11年岸田村の博文小学校が当村に移転。同校で教鞭をとった当村出身栗山新は※岡山藩閑谷黌に学び林田藩儒者※河野鉄兜の門下で、山崎藩の典医もつとめた。明治22年川東村の大字となる。

※閑谷黌(しずたにこう):閑谷学校。岡山藩主池田光政(みつまさ)が創設した庶民教育のための藩営の学校。校地は特別史跡、講堂は国宝。
※河野鉄兜(こうのてっとう):文政8年(1825年)〜慶応3年(1867年)。揖東郡網干垣内に生れる。江戸時代末期の詩人、医者。林田藩の藩校の教鞭をとる。

【近代】神谷 明治22年~現在の山崎町の大字。昭和53年揖保川にさつき橋を架設。昭和55年河東小学校が三谷へ移転。昭和59年圃場整備完了。

※神谷遺跡の発掘記念誌発行についての記事について
http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=7173&…1261921155
記念誌(下記写真)

■矢原(やばら)
揖保川中流左岸に位置する。中世は石作庄のうち。

【近世】矢原村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。年月日不詳の播磨国石作庄年貢・段銭等算用状(久保家文書)に「矢原」の名主の名がみえ、屋原とも記されている。慶長国絵図に村名が見える。天保年間隣村岸田と境界論争を起こしている。神社は、矢原神社(牛頭天王社)。同社は五社天王と呼ばれるうちの1社で、もと1社であったものが分離したという。

【近代】矢原 明治22年~現在の大学名。はじめ河東村、昭和30年からは山崎町の大字。昭和55年がら圃場整備が実施され、農地の中央部を南北に農道が貫通し、同時に揖保川に堤防が造成された。

◇発見:揖保川の東地域の沃土に古代から人々が住み着いていた痕跡が数多く発見されている。

「E-宍粟」支援隊“そーたん’s”

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Re: 地名の由来「神谷・矢原」
【返信元】 地名の由来「神谷・矢原」
2010年01月05日 10:55
河東南遺跡(かわひがしみなみいせき) (神谷・三谷・中)

河東南遺跡 (山崎町神谷・三谷・中)
揖保川中流左岸にあって、同川によって形成された標高140mの平坦地に立地する。なお、この地区は河東条里制跡と推定されている。弥生時代後期おひび古墳時代後期の集落跡で、集落の最盛期は古墳時代後期。昭和57年(1982年)に南北約300m・東西約250mの範囲が試掘され、多数の土壌およびピット、溝状遺構二条・竪穴住居跡八棟(一棟は時期不明)が発見されている。そのうち弥生後期に属するものは円形竪穴住居1棟。平面径は8mで、周壁溝をもち、二度の立替が認められる。古墳時代後期のものは一辺が約4~5mの隅丸方形の竪穴住居跡五棟、方形竪穴住居跡一棟。柱穴を残すものはすべて主柱穴四。周壁に溝をめぐらし、竈(かまど)・煙出しを伴うものもある。遺物は各種の須恵器・土師器(はじき)多数、ほかに一棟から祭祀具の滑石製孔円板が出土。揖保川中流域において古墳時代後期の集落跡が発見されたのは初めてで、竈の構造もそれぞれ異なっているなど、今後の基礎的資料として重要である。