宍粟の地名(由来)の「地名の由来「野・船元・下広瀬」」
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地名の由来「野・船元・下広瀬」
【閲覧数】2,985 【マップカテゴリ】山崎町
2009年12月22日 14:20
今回は、「野・船元・下広瀬」を取り上げます。

■野(の)

揖保川中流右岸。条里制の遺構が水田中に認められる。

【近世】野村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。もと船本村の一部、同村から分村して成立。なお、郷帳類では船本村に含めて書きあげられている。神社は、稲垣神社。寺院は、浄土真宗本願寺派正福寺。同寺は宝暦13年道場から始まったという。

【近代】野 明治22年~現在の大字名。はじめ城下村、昭和30年からは山崎町の大字。

■船元(ふなもと)

舟元とも書く。揖保川中流右岸の平野部。

【近世】船本村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。当村から野村が分村したと思われるが、郷帳類では船本村一村として書きあげられている。慶長年間(1596から1615年)当村で千種鉄を利用して姫路藩主池田輝政建造の日本丸の錨が製作されたという。※(播州宍粟郡誌)。

慶安年間(1648~1652年)には揖保川の渡しが置かれ、藩主の参勤交代に利用され下座場があった。寺院は、浄土宗一雲寺(一雲庵)。同寺は大雲寺(山崎町史)末寺で、17世紀前半に廃寺となった一雲寺(同)の本尊仏を移置したものという。同寺には寛政元年(1789年)金屋村鋳物師長谷川孫兵衛銘の梵鐘も残っている。また、墓地には安政2年(1855年)俳人二頃庵年足建立の芭蕉の句碑がある(山崎町史)。明治22年城下村の大字となる。

【近代】船元 明治22年~現在の大字名。はじめ城下村、昭和30年からは山崎町の大字。昭和40年国道29号線改修工事が完了。同50年これに連絡する中国自動車道山崎インターチェンジが開通。交通量が増大し、自動車関連の商店などが増加している。

■下広瀬(しもびろせ)

揖保川中流右岸の平野部。北方に中広瀬があり、古くは付近一帯を広瀬と称したものであろう。羽柴秀吉の中国攻めに同行した連歌師の里村紹巴(さとむらしょうは)が、この地で「かがり火に鵜の首みゆる広瀬かな」の発句を詠んだという(豊鑑)。地名は、揖保川の瀬のひろい流れによるものと考えられる。水田中に条理の遺構が見られるが、揖保川の氾濫により大きく撹乱されている。

【近世】下広瀬村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。明治22年城下村の大字となる。龍野、網干への道として中広瀬村の稲垣神社西方の寛政9年(1797年)に立てられた道標を南にとり、当村から御名村を経て揖保郡へ通じる道があった。(山崎町史)狐山神社がある。

【近代】下広瀬 明治22年~現在の大字名。はじめ城下村、昭和30年からは山崎町の大字。昭和40年に改修が完了した国道29号線が、北から東へ大きく屈曲して通過し、これと連絡して中国自動車道(同50年開通)の山崎インターチェンジが設置された。

◇今回の発見:今回あげた揖保川沿いの3つの地は、揖保川の恵みと同時に、氾濫に悩まされてきた地である。条里制の遺構もあるが、撹乱されているという。

※日本丸の錨にまつわる興味深い「錨淵(いかりぶち)」のいわれがありますのでご覧ください。
http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=1324&…;bbs_id=56

「E-宍粟」支援隊“そーたん’s” 

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