宍粟の地名(由来)の「地名の由来「山田・中広瀬」(山崎)」
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地名の由来「山田・中広瀬」(山崎)
【閲覧数】2,232 【マップカテゴリ】山崎町
2009年12月16日 13:54
今回は、「山田・中広瀬」をとり上げます。

■山田(やまだ)
揖保川中流右岸(西)の平野部に位置する。

【近世】山田村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。中世末に段丘面西部に山崎村、東部に当村があったが、寛永8年(1631年)、町場化に伴い城下町に居住していた農民を当地に移住させて成立。農人町・田町とも別称。郷帳類では江戸期を通じて山崎村の一部として扱われた。城下町の南東端の清水口を出た道は当村で姫路方面と龍野方面に分かれる。分岐点に寛政9年(1797年)に立てられた石の道標がある。(写真2)

【近代】山田 
明治22年~現在の山崎町の大字名。

■中広瀬(なかびろせ)

揖保川中流右岸(西)、篠の丸山の南東麓。古くは広瀬郷ともいったといい、南方には下広瀬の地名がある。地名は揖保川の氾濫原で沃野が広がることが郡内一であったことに由来するといい(宍粟郡誌)、また揖保川の流れが広くなる地点であることにちなむとも考えられる。
【近世】中広瀬村
江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。神社は稲垣神社。当村は揖保川筋にあり、高瀬舟による舟運にもかかわり、安政年間には川船が3艘あったという。また、洪水の被害が出ることも多かったという。

【近代】中広瀬
明治22年~現在の山崎町の大字名。揖保川の舟運はその後衰微しながら昭22和初期まで続いた。大正8年に郡是製糸宍粟分工場が安志(あなし)村安志から地内に移転し、山崎工場と改称。昭和6年には従業員712人、生産高3万7,526貫、工場周辺には下請け業者が集中し、周辺の農山村の養蚕業とともに活況を呈したが、戦後絹織物の需要減退により、次第に規模を縮小。同34年に工場は閉鎖された。昭和32年に始まる国道29号の改修・整備と山崎インターチェンジの開通により、交通の要地として工場や商店などが増加。

◇今回の発見 現在地名で中広瀬、下広瀬として残る広瀬郷は、揖保川の氾濫でできた大きな沃地であった。

※広瀬郷:秀吉軍が長水城を攻めたときに、出石の愛宕山に陣を張り、広瀬郷先の長水山にある長水城を望んで詠んだ句に「かがり火に、鵜(宇野)の首みゆる 広瀬かな」というのがあり、広瀬郷が出てきます。長水城は別名広瀬城ともいう。

「E-宍粟」支援隊“そーたん’s” 

▼地図(地名と道標) ▼寛政9年(1797)の道標

書き込み数は4件です。
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Re[2]: 地名由来「山田・中広瀬」(山崎)
【返信元】 Re: 地名由来「山田・中広瀬」(山崎)
2009年12月20日 18:27
アイテツさんへ
返事が、少し後れましたが、こんなことがわかりました。
最近、市外に出ると、今まで気に留めなかった地名が気にかかるようになりました。偶然ですが、姫路市香寺町のネッスルコーヒー工場の少し北に広瀬の地名を見つけました。山崎の中広瀬と同じように、東には市川が流れ、河幅が倍近くになっています。同じような地形に同じ、広瀬地名がありました。全国的にこの地名が多いと思います。
 広島の地名由来について調べると、戦国の毛利氏の祖、大江広元の広と大田川河口部に城地の選定にあたった在地の土豪、福島元長の島を合わせ命名したという説と、元来、旧佐東郡五ヶ村と称した当地は、河口部に五つの島が広がり、文字通り広島の景観が展開していたとみられ、形状地名とも考えられる。と日本地名ルーツ辞典(創拓社)にありました。ただ、広に低いところの意味があることは、わかりませんでした。瀬は川の浅いところ、流れが早いところの意味はありますが・・・。
Re: 地名由来「山田・中広瀬」(山崎)
【返信元】 地名の由来「山田・中広瀬」(山崎)
2009年12月17日 01:24
タケネットさん、部外者が恐縮です。
以前、地名について書いた時、「広島」のヒロは、「低地」を意味するとありました。中広瀬も「低地の瀬」の可能性はないでしょうか?
地名は人の歴史の化石と考えておりますので、いつも、あれこれ考えて楽しませて頂いております。有難うございます。
Re[2]: 地名由来「山田・中広瀬」(山崎)
【返信元】 Re: 地名由来「山田・中広瀬」(山崎)
2009年12月16日 17:50
コーゾーさんへ

私も話しには聞いたというか、宍粟橋の上の岸につながれていた屋形船を見たような気がするのですが・・?。今日の一枚の写真「水運物語Ⅲ」で屋形船が、高瀬舟写真の枚数制限で、出せませんでしたので、次回UPします。

Re: 地名由来「山田・中広瀬」(山崎)
【返信元】 地名の由来「山田・中広瀬」(山崎)
2009年12月16日 17:20
タケネットさん、

ついに我らが中広瀬まで来ましたね。
ありがとうございます。

秀吉が愛宕山に陣地を構えたという話は知っていましたが、
長水城に相対していたわけですね。今知りました。

うちの親父も、独身時代は郡是製糸に勤めたことがあるそうです。
私も、ガキの頃は工場の中が遊び場でした。
工場がつぶれたときは悲しかったですね。昭和34年でしたか。
正門入って、本館事務所前にあった楠だけが今の公園に残っています。
うれしいですね。この木の下で、ワンバン打ちとか三角ベースとか、
いろいろ野球もどきを発明して遊んでいました。

それから、昭和30年頃、西島さんが屋形船を2隻造って、
納涼船として使っていたのを思い出しました。芸者さんが
三味線引いて、おじさん達が賑やかに飲んでいました。

いろんなことを思い出しました。ありがとうございます。