宍粟の地名(由来)の「地名の由来「千種」 「三河(宍粟郡・南光町・佐用町)」」
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地名の由来「千種」 「三河(宍粟郡・南光町・佐用町)」
【閲覧数】2,050 【マップカテゴリ】南光町(現佐用町)
2009年12月04日 15:21
今回は、千種村と三河村の地名由来を取り上げます。

■千種:古くは敷草村(しきくさむら)という。千種川の上流域。

 地名の由来は、「風土記」に「草を敷きて神の座となす、故敷草という」とあり、「播磨国風土記新考」(井上 通泰著)に「シキクサをシクサとつづめ更にチクサと訛れるならむ。伊和大神巡行の時、草を敷きて大神の御座とせしならむ。」とある。また大森神社由緒によれば、村の木こりが大山祇命(おおやまづみのみこと)の教えにより玉を得、これを奉祀するため八百草・千草を刈り集めて神座を作ったことにより千草と名付けたという。

【中世】千草村 鎌倉期~戦国期に見える村名。播磨国宍粟郡のうち。千草村は、本来九条家領であったが、本家職をもつ九条忠家から東福寺の塔頭光明峰寺に寄進され、寺用不足・修理料にあてられていた。また当村は宍粟郡内ではあるが佐用荘に含まれ、「播磨国佐用荘内東庄・西庄・本位田(ほんいでん)・新位田(にいでん)・豊福村・江河村・赤松村・千草村・土万村」とも見える。

【近世】千草村 江戸期~明治22年の町名。宍粟郡のうち。明治以降は千草村と称した。もと豊臣氏蔵入地。慶長5年(1600)姫路藩領、元和元年(1615)山崎藩領、慶安2年(1649)幕府領、以後延享元年(1744)~同3年(1746)出羽国山形藩領、宝暦2年(1752)~13年(1763)上野国高崎藩領、明和6年(1769)~文政11年(1828)尼崎藩領となったほかは幕府領。

千草村は、早くから町を形成していたと思われ、宝永5年(17089片岡醇徳著の「播州宍粟郡誌」によれば、当町は商農が並び、あたりには村も多く、因幡・美作へ近く、鉄山もあって交易でにぎわい、酒屋が6軒あったという。

【近代】千種村 明治22年~昭和34年の宍粟郡の自治体名。千草(ちくさ)・西河内(にしこうち)・河内(こうち)・河呂(こうろ)・岩野辺(いわのべ)・黒土(くろつち)・鷹巣(たかのす)・七野(ひつの)・下河野(けごの)・西山(にしやま)・室(むろ)の11か村が合併して成立。旧村名を継承した11大字を継承。

【近代】千種町 昭和35年~現在の宍粟郡の自治体名。※既出


■三河村:古くは御川と書く。千種川中流域。地名の由来は、伝承によれば、船越と河崎の境、久保田の地の北の自然の堤防を、大山咋命(おおやまくいのかみ)が切り離し川を南流させたといい、この川を神が作ったため御川と呼ぶという。

【中世】三川村 南北朝期~戦国期にみえる村名。播州国宍粟郡のうち。南北朝期に当村などは赤松氏の所領となっている。なお、当地は宍粟郡であるが、中世には佐用荘(さよのしょう)に含まれた。

【近世】三河村 江戸期の村名。宍粟郡のうち。もと豊臣氏蔵入地。慶長5年(1600)姫路藩領。元和元年(1615)山崎藩領。慶安2年(1649)からは幕府領。延宝年間(1673~1681)までに上三河村、中三河村、下三河村に分村。

【近代】三河村 明治22年~昭和30年の宍粟郡の自治体名。船越・河崎・上三河・中三河・下三河・西三河・西下野・漆野の7か村が合併して成立、旧村名を継承した7大字を編成。

昭和30年〜平成17年 中安村・徳久村・三河村が合併し「南光町」が成立
平成17年 佐用郡内の4町南光町・佐用町・上月町・南光町合併し佐用町となる。

◇今回の発見と歴史の広がりの予感
(1)千種は古代の鉄のルーツ、江戸期以降は、たたらの里として知られているが、一方これほどまでに所轄、管轄が変わったとは、驚きである。江戸期にさえ何度藩がえがあったのか、辞典の写しと和暦西暦対照表を片手に西暦年数の書き込みに苦労。
(2)地名の由来の記述から、2神の逸話の話で但馬、今回は三河村により西隣の町、佐用町に及ぶ。現在の三河村は、佐用郡南光町を経て平成の合併により佐用郡佐用町○○となり、南光の名は住所から消えた。この佐用町は風土記の播磨国賛容郡(さよのこおり)六里の一つ「賛容里(さよのさと)」である。宍粟周辺の市町に歴史が広がっていく。

「E-宍粟」支援隊“そーたん’s”

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