宍粟の地名(由来)の「地名の由来「三方・下三方・繁盛」(一宮)」
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地名の由来「三方・下三方・繁盛」(一宮)
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2009年12月02日 16:04
今回は、一宮町の三方(みかた)村、下三方(しもみかた)村、繁盛(はんせ)村の地名由来について取り上げます。

■三方:揖保川の支流三方川に公文川が合流する地点に形成された三方盆地に位置する。
【古代】三方郷 奈良期~平安期に見える郷名。「和名抄」播磨国宍粟郡八郡の一つ。

「風土記」に宍禾(しさわ)郡七里の一つとして、御方里(みかたのさと)とあり、次のような逸話がある。
伊和大神(いわのおおかみ)と天日槍命(あまのひぼこのみこと)の二神は争って、最後は高峰山(黒土志尓嵩 くろつちのしにたけ)についた。そして、争いに決着をつけるため、それぞれの黒葛(つづら)三条を足につけ投げた。伊和大神の黒葛の一条は、但馬の気多の郡(けたのこおり)に落ち、一条は(但馬の)夜夫の郡(やぶのこおり)、残りの1条がこの村に落ちた。ゆえに、この村を三条(みかた)という。ところが、天日槍命の黒葛はみな但馬に落ちた。だから天日槍命は、但馬へ去り但馬の伊都志(いずし)の地を占めた。こうして二神の争いは占いによってかたがついた。
しかし、ある人は「伊和大神の形見の御杖(みつえ)がこの村にあるから、御形(御方)と言う」とも言っている。

【中世】三方荘 鎌倉期~室町期に見える荘園名。宍粟郡の内。三方東荘ともいう。風土記の御方里、和名抄の三方郷と同じ地域であろう。
【近世】三方町 江戸期~明治22年の町名。宍粟郡のうち。三方町村・味方町・三方村・味方村とも称した。はじめ山崎藩領、延宝7年からは幕府領。当町は、南北に走る但馬街道と東西の朝来(朝来町、大原(岡山県大原町)に抜ける街道の接続地であり、三方道谷街道の分岐点ともなった。特産物として、「御方の半紙」と呼ばれる和紙がある。
【近代】三方村 明治22年~昭和31年の宍粟郡の自治体名。福野(ふくの)村、河原田(かわはらだ)村、三方町(みかたまち)、公文(くもん)村、森添(もりそえ)村が合併して成立。旧町村名を継承した5大字を編成。
【近代】三方町 明治22年~現在の大字名。はじめ三方村、昭和31年からは一宮町の大字。

■下三方村
【近代】明治22年~昭和31年の宍粟郡の自治体名。生栖(いぎす)、深河谷(ふかだに)、西深(にしぶか)、福知(ふくち)、福中(ふくなか)の5か村が合併して成立。旧村名を継承した5大字を編成。
 明治39年宍粟郡で最初の※信用組合が設立された。これと前後して、報徳社・農民共同救護社が結成され、村の産業経済の基礎固めに貢献した。

※下三方信用組合(一枚の写真)http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=13957…;bbs_id=99

■繁盛村
【近代】明治22年~昭和31年の宍粟郡の自治体名。百千家満(おちやま)、上岸田(かみきしだ)、草木(くさぎ)、千町(せんちょう)、黒原(くろはら)、井内(いうち)、横山(よこやま)、倉床(くらとこ)の8か村が合併して成立。旧村名を継承した8大字を編成。
地名の由来は、半瀬谷の名をもじって繁盛村としたようである。(一宮町史)
 大正2年宍粟郡で最初の草木発電所を設置。同3年から金平鉱業大身谷鉱業所により倉床・富士野の鉱山で鉱石採掘が始まった。(写真3)

※天日槍命の国、但馬国のサイトがあります、参考までに
http://www.st.rim.or.jp/~komatsu/tajima.html

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▼明治の郡町村 ▼町村制施行後地図 ▼一宮全図

書き込み数は5件です。
[ 日付順 ] [ 投稿者順 ]
繁盛地区大字配置図
【返信元】 地名の由来「三方・下三方・繁盛」(一宮)
2011年10月26日 10:12
繁盛地区の大字図をUPします。「一宮町小字図地名集」より

繁盛(はんせ)地区

草木には草置城跡が知られている。富土野では、古くより銅・銀などが採鉱され、近世初頭に最盛期を迎えたようです。

●江戸時代
全域が天領で、生野代官の支配を受けています。

●明治時代~大正時代
上岸田に残る半瀬の地名に因んでは繁盛村となった。倉床富土野では、江戸時代以来の銅山が近年に至るまで創業を行っていました。また大正期には、発電所と草木ダムが完成しています。

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▼大字配置図      ▼藩の変遷図
三方地区大字配置図
【返信元】 地名の由来「三方・下三方・繁盛」(一宮)
2011年10月18日 15:58
三方地区の大字配置図をUPします。「一宮町小字図地名集」より

三方(みかた)地区

●縄文・弥生時代
福野遺跡・森添遺跡・家原遺跡では縄文時代の竪穴住居が、森添遺跡・家原遺跡では弥生時代の竪穴住居が検出されている。東方の山麓には井の田・宇奈手古墳群が築造されています。
●奈良時代・平安時代
奈良時代の播磨国風土記の御方里、平安時代の和名抄の三方郷の中心を占めたものと思われる。奈良飛鳥池遺跡や平安京跡からは「三方里」と記された木簡が出土しています。
●中世
平安時代末から中世を通じては三方庄が置かれ、家原遺跡の鎌倉時代の掘立柱建物群は荘園管理に伴う中心的な施設と考えられています。
●江戸時代
北部を中心に木地師の集落が分布し、たたら製鉄も盛んに行われていました。
●明治時代
明治22年(1989)の町村制施行により、古代以来の地名をとって三方村となりました。家原遺跡は公園として整備され歴史資料館・一宮温泉などが設置されています。

「E-宍粟」支援隊そーたんs

▼大字配置図      ▼藩の変遷図
下三方地区大字配置図
【返信元】 地名の由来「三方・下三方・繁盛」(一宮)
2011年10月07日 10:09
下三方地区の大字配置図をUPします。「一宮町小字図地名集」より

下三方(しもみかた)地区

●縄文・弥生時代
地区南部の深河谷遺跡・生栖遺跡では、縄文土器や弥生土器の出土があります。
●古墳時代
生栖遺跡は竪穴住居が確認されています。
●奈良時代・平安時代
奈良時代の播磨国風土記には御方里、平安時代の和名抄では三方郷に属していたと考えれています。また平安時代末から中世を通じて三方庄に含まれたものと見られます。
●鎌倉時代
生栖遺跡の掘立性建物群は荘園管理に伴う遺構と考えられています。
●江戸時代
深河谷が一時尼ケ崎藩領となった以外は天領で、生栖・深河谷・西深が大阪谷町代官、福知・福中が生野代官の支配を受けています。
●明治時代
明治22年(1989)の町村制施行により、三方谷の下流域の名をとって下三方村となりました。

「E-宍粟」支援隊そーたんs

▼大字配置図      ▼藩の変遷図
Re[2]: 地名の由来「三方・下三方・繁盛」(一宮)
【返信元】 Re: 地名の由来「三方・下三方・繁盛」(一宮)
2009年12月13日 23:21
宍粟市には珍しい、難解な地名が結構多いですね。一宮町にも、そのような地名が多くあります。公文はその一つです。由来は言われているとおりだと思います。ただ、福のつく地名が多いのは、鍛冶とは別の意味で、土地に願いを込めたり、深いの意を福という字に当てはめたりいろいろです。
後で、一つひとつ取り上げたいと思います。
Re: 地名の由来「三方・下三方・繁盛」(一宮)
【返信元】 地名の由来「三方・下三方・繁盛」(一宮)
2009年12月13日 03:04
すごいですね。古代・中世の地名が残っているんですね。フクが多いのは鍛冶との関係でしょうね。公文は荘官の地名では?