しそうの逸話の「(061)一宮町 下三方地区『山津波(やまつなみ)』と『抜山(ぬけやま)』」
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(061)一宮町 下三方地区『山津波(やまつなみ)』と『抜山(ぬけやま)』
【閲覧数】5,618 【マップカテゴリ】宍粟の逸話「一宮」
2009年04月24日 19:19
 2007年(平成19年)8月14日付けの神戸新聞「西播」のページに〝山津波「記憶に残したい」宍粟・下三方地区災害伝承部会が展示会″という見出しで「31年前、台風による集中豪雨で起きた山津波で、甚大な被害を受けた宍粟市一宮町下三方地区で、災害対策のために当時の資科を集めている「山津波災害伝承部会」が、新聞のスクラップや証言集など寄せられた資料を同地区のセンター下三方で展示している。
 山津波は1978年9月3日朝、同地区の通称「抜山(ぬけやま)」で発生。流れ込んだ約百万立方メートルの土砂が集落を埋め、小学校、幼椎園などのほか、民家52世帯が被災、3人が犠牲になった…などとの記事が記載されていた。
 この記事を読み終わった途端、「そうだ!下三方の山津波は昭和時代、兵庫県内で発生した大災害の一つにあげられており″抜山″という
伝説もあると聞いている。是非この『郷土の伝説と民話』シリーズの中に記録しておきたい」と思い、さっそく取材のため前記センター下三方の展示会場を訪ねた。
 会場では、山津波災害伝承部会の段林繁部長(65)=一宮町生栖=にお目にかかり、山津波発生時から復旧の経過を収録したビデオを上映してもらったり、災害の状況を撮影した写真や記録集を見学。とくに会場正面に展示されていた被災当時、下三方小学校3階にあった9時31分で止まつた掛け時計が印象に残った。このあと地元の上田純之甫さんが調査蒐集された「抜山伝説を迫う」11話をコピーしたプリントをいただいた。
 昭和51年9月13目早朝、下三方地区の抜山で山くずれが発生。流れ出した土砂で一家6人が生き埋めになった。近所の人たちや消防団員らが、懸命の救出活動を行い、3人を助け出した。そのあとも、小さな山くずれが続く中、残る3人の救出作業が続行された。
 午前9時過ぎ、土砂の流れ状況から、再度山くずれが起きる危険が大きくなつたので、下三方小学校内に特設された、救助本部や消防団員がマイクで「山くずれが起こる心配が大きくなりました。早急に避難して下さい」と繰り返し地元の住民に呼びかけた。住民たちは、この呼びかけに応えて続々と避難した。
 同9時30分頃〝ゴオ!!″…なんとも言えぬ無気味な地鳴りと共に、大きな山が動き出し、立ち木がバタ・バタ倒れた。大シケの波のように土砂が流れ落ち、民家や公共施設が次々崩土にのまれた。鉄筋コンクリート3階建ての下三方小学校も土砂に流され、小さな箱をねじ曲げたように、くんにゃりゆがんだ。
 この山津波による土砂の流出は、約百万立方メートル。小学校・幼稚園・診療所・警察の駐在所・郵便局はじめ民家40戸が崩壊した。
 当時、被災地域には676人がいたので、多くの人たちは 「おそらく数十人が犠牲になっているだろう」と考えた。しかし、消防団員が走り回って住民の安否を調べた結果、最初の3人以外、全員の無事が確認され、災害史上例のない「奇跡の全員脱出」と言われた。
 全員が無事脱出できたのは、第一次災害で住民らの注意が喚起されていた。台風のため小学校・幼稚園が休みになっていた。消防団員の脱出誘導が適切だった。ことなどがあげられているが、もう一つ「抜山伝説を聞いていた住民が多く、避難の心構えが出来ていた」から、ということもあったとか…。
 「抜山」については昭和53年、一宮町から発行された『記録山津波』の中の「抜山伝説」の項に「抜山という名の起こりは300年前に大規模な山津波があって「抜山」という名になったそうである。そういえば村の人々は今になっても思い当たるであろう。最初の山崩れのあった家の近くで戦前、井戸を掘ったら6メートルの土の下から化石のような稲株と籾がでてきたそうだ。その時はみんな珍しかっただけであるが、やはり伝説は本当だったのだ。古老の話によると、子どものころ抜山の頂上にザックリ、えぐりとられたような不自然があったそうである。」=以上原文のまま=と記載されている。
 段林部長からいただいた上田純之甫さんの調査蒐集による「抜山伝説を追う」のプリントには、多くの古老から聞いた抜山伝説の話や寺院、大庄屋にあった古文書の内容などが書かれている。
   (平成19年9月掲載:宍粟市山崎文化協会事務局)

添付画像(1):被災した下三方小学校(神戸新聞社提供)
添付画像(2):現在の下三方小学校付近


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