宍粟・播磨の城跡の「播磨 谷城跡(2) (市川町)」
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播磨 谷城跡(2) (市川町)
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2019年08月07日 12:50

 

 

播磨 谷城跡 (2)   神崎郡市川町谷 

 

 

 

永良(ながら)氏の城「谷城」

 

 市川は、兵庫県中部の朝来市生野町の三国山(標高855m)に源流を発し神崎郡域を南流し、姫路市飾磨区で播磨灘に注いでいる。

 古くからその市川沿いには播磨と但馬を結ぶ街道が発達していた。その交通の要衝に多くの城跡・砦跡が残されている。それは室町期以降に赤松一族により播磨の北部の守りとして築城されたものであった。

  永良荘(荘園)を支配した赤松一族はこの地名から永良と名乗っている。

永良氏は、古城山(標高206m)に谷城を築き、その後北峰つづきの稲荷山にも城を築いている。谷城は本郭(本丸)・北郭・南郭・堀切・土塁・井戸跡等が整然と残された中世播磨のモデル的な城跡である。

 

 

   

▲城図 作図:藤原孝三氏  一部着色

 

 

▲主郭(本丸)

 

▲主郭から西方面の眺め

 

 

 赤松氏と山名氏の争い

 

 嘉吉元年(1441年)播磨守護職の赤松満祐が室町幕府第六代将軍足利義教を殺害した(嘉吉の乱)。但馬の山名宗全(持豊)は幕府軍の総大将として生野のより進入し、赤松軍を撃破し、城山城(たつの市)で赤松満祐を倒した。宗全は、その功により播磨を手にした。しかし赤松の遺臣たちの悲願により赤松が再興し、応仁の乱で山名氏を播磨から駆逐し、赤松政則が播磨守護職に返り咲いた。

 生野から飾磨の街道は、赤松・山名の両武将たちが刃を手に北に南に駆け巡った戦いの街道だったといえる

 

 

谷城の落城

 

 戦国時代の谷城主永良氏の動きは不明だが、赤松総領家と赤松の重臣であった浦上氏との抗争で赤松方として戦い浦上氏に敗れ落城したと考えられる。

 天正5年(1577年)以降羽柴秀吉の播磨侵攻により赤松総領家の置塩城主赤松則房は秀吉の臣下となった。同時に市川流域の赤松の家臣もそれに従っているので、従来秀吉によって落城したという伝承は根拠のないものとなった。

 

 

 

▲城跡の案内図           

 

谷城址一帯は里山の自然公園として整備され、大歳神社から ハイキングコースが設けられている

 

※ 地域情報誌「おくはりま 2016春号 」 城跡シリーズ執筆掲載より

 

【関連】

・谷城跡(1) http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=20102…1389862236 

・鶴居 稲荷山城 http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=20347…1395031492

 

※宍粟・播磨の城跡 http://shiso-sns.jp/community/?bbs_id=122

 


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