タケネットの名城をゆく の「讃岐 高松城 をゆく」
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讃岐 高松城 をゆく
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2019年03月28日 11:49

讃岐 高松城  をゆく

香川県高松市玉藻町

 



▲艮櫓(うしとらやぐら) 


▲城内部から見た艮櫓    

 ▲着見櫓(月見櫓) 城の向こうはすぐ海だった


▲天守台 広い堀の中 失った天守を待つかのよう    

 

▲天守台復元イメージ


 城近くの栗林(りつりん)公園には過去何回か行ったことがあるが、高松城跡へは今回が初めてだった。城域の北面はかなり埋め立てられ、琴電が中堀に沿って西から東をL字型に取り巻くように走っている。都市化の中で目立たない感があるが、大手門をくぐって中に入ってみると、意外と広く、本格的な日本庭園があり、広い内堀には観光客を乗せた城舟が天守台の周辺をゆっくりと進んでいた。その光景に一瞬タイムスリップした。

 


▲内堀をすすむ城舟「玉藻丸」

 

       

▲三の丸の庭園は純日本庭園

 

高松城のこと

日本三大水城(みずき)※の一つといわれている。天正15年(1587)豊臣秀吉の命により生駒親正が讃岐一国の大名として入封し、先ず大内郡の引田(ひけた)城に入ったが、東に偏しているため宇多津の聖通寺城に移る。これまた手薄という理由で、幾つかの模索の結果、玉藻浦(たまもうら)に決定し、天正16年築城を開始し3年後に完成した。玉藻浦には美しい海草が生えていたからその名が付いたのであろう。高松城は玉藻城ともいう。
※三大水城の他の2つは、今治市の今治城、中津市の中津城

 

 中央北に三層五重の天守があり、その周りを内堀、中堀、外堀が三重に取り巻き、堀には海水を引き込んでいた。二の丸から廊下橋を渡ると天守曲輪がある。外堀の内側に重臣の屋敷、外側に侍屋敷、商人・職人町、寺町などがあった。

▲讃岐高松城図 国立国会図書館蔵

 


▲高松城および城下町絵屏風  松平公益会蔵

 

 

 かつては三層五重の天守とそれを取り囲む15の櫓とがあったが、現在は着見櫓(月見櫓)、艮(うしとら)櫓、続(つづき)櫓、水の手門等が残っている。三の丸のあった場所は被雲閣(松平氏の居館の移築)があり、松と枯山水による純日本庭園となっている。

 天守は明治17年に老朽化により取り壊されたが、その天守台には最近まで松平家歴代を祀る玉藻廟があった。外堀は埋め立てられ、街路や商店街となり、海岸部は高松港造営工事のため、旧城郭部の多くが埋め立てられた。昭和20年の高松空襲で多くの城郭建築物や所蔵の文化財が焼失している。

 東にある栗林(りつりん)公園は、江戸初期に生駒家の別荘があった場所で、生駒家・松平家と受け継がれ松平5代藩主頼恭のとき手を加え完成した回遊式の大庭園で、大名庭園とよばれている。これもまた日本三名園※2として広く知られている。

※日本三名園の他の2つは、金沢市の 兼六園、水戸市の偕楽園

 


参考:「日本城郭大系」、「日本地名大辞典」他



雑 感

  生駒氏は讃岐に入り本拠の城をどこに置くかその選定に苦労したようで、最終的に浜手を選んだ。当時としては類例の少ない水城だった。その縄張りに関わったのは古くから、黒田官兵衛説、藤堂高虎説、細川忠興説等があるが、その記載資料からでは黒田官兵衛説が有力だという。官兵衛は同時期に豊前中津に同じ水城の建設を始めており、両者には何らかのつながりがあったのかも知れない。

 高松城の古写真を見ると、かつては瀬戸内に北面した優美な水城であったことがわかる。城の周りにはいくつもの櫓があり、その中心に天守が存在していた。
「讃州さぬきの高松さまの城が見えます波の上」と詠われた水城の、海からの光景は今は望めない。ただ現存の着見櫓(月見櫓)がその面影を残すのみ。現在大手玄関の左に優美な姿を見せているのは、城の鬼門(北東)にあった艮櫓が昭和42年に移築されたものだという。

 

▲古写真 昭和初年 左が艮櫓、右が今はない鹿櫓

 


▲写真 天守の最期の勇姿 陳列館より

 


 とにかく、高松といえば松。三の丸にある被雲閣の庭園もそうであったが、近くの栗林公園も行くたびに手入れの行き届いた松に感心する。松を愛する伝統の結晶ともいえるだろう。この松の庭園が何故栗林公園と呼ばれているのかが、今回わかった。この場所は藩主生駒家の別荘地があった場所で栗林荘と呼ばれていたからだという。

 

栗林公園内の松






◆ 宍粟(しそう)・播磨の城跡 をご覧ください。http://shiso-sns.jp/community/?bbs_id=122


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