タケネットの名城をゆく の「因幡 鳥取城をゆく」
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因幡 鳥取城をゆく
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2019年03月24日 18:12

 

因幡 鳥取城 をゆく

鳥取市東町2

 

 

 

 

 

 

   因幡の城といえば、鳥取城だ。残された石塁は修理が進み、築城当時の勇壮な石垣がほぼよみがえっている。
   昭和18年の鳥取大地震で多くの石垣は崩れ落ちた。それを江戸時代の手法ですべて人力で解体修理し、7年も費やして復元保存している。

 

 

  ▲古写真:昭和34年(1959)の頃 三ノ丸三階櫓石段の修復 ▲現在  (説明版より)

 

 

 この城跡には過去何回か訪れているが、今回一連の因幡探索の途中、桜の開花を待たず3月下旬、久松山(きゅうしょうざん)頂上の「山上(さんじょう)の丸」本丸跡に初めて足を踏み入れた。

  秀吉の兵糧攻めによりこの城内で多くの城兵達の飢えによる地獄の苦しみがあったのだが、三木城(三木市)と同様、まったくそれが感じとれなかった。
  仁風閣(じんぷうかく)近くから見ると、幾層もの石塁が山麓に延びている。かつてはその上に白亜の城郭が勇壮に起立していた。それは、明治の頃の古写真が証明している。

 

 

 

▲明治10年(1877)頃二の丸 鳥取市歴史博物館蔵   

   写真の櫓一つでも現存していたらとは思うが、石塁の美しさだけで鳥取城の迫力は十分だとも思う。大砂丘と石塁は鳥取の文化遺産として大事にしていけば、訪れる人々を魅了しつづけるにちがいない。


鳥取城のこと

 
 この城は天文14年(1545)山名誠通(のぶみち)が本拠の布施天神山城の支城として久松山山頂(標高263m)に城を築いたのが始まりで、天文17年(1548)に同族の但馬守護山名祐豊の攻撃を受け、天神山城も鳥取城も落城した。 
 山名誠通の後には山名祐豊の弟の山名豊定が入った。山名豊定の子の豊国のとき鳥取城城代であった武田高信に城を奪われた。その10年後山名豊国は山中鹿介の援助を受け武田高信を追い払い、天神山城から久松山城へ居城を移し、久松山を城塞化している。一時は尼子氏に落とされるも、復帰する。
   天正元年(1573年)、毛利氏の武将吉川元春に攻められて降伏して毛利氏の軍門に下った。

 

 

     山名豊国              吉川元春

 

 山名豊国は天正6年(1578年)から織田信長と誼(よしみ)を通じたが、天正8年(1580年)に羽柴秀吉の侵攻によって、一旦は鳥取城に籠城するが、重臣の中村春続(はるつぐ)、森下道誉(どうよ)ら家臣団の反対を押し切り秀吉の軍門に下り、許され城主に留まる。しかし家臣によって追放され、秀吉側に下っていった。秀吉の鳥取城攻めが始まるや、城主を追放した家臣等城兵は、吉川元春に城主の派遣を要請し、石見の福光城主であった吉川経安(つねやす)の子、経家(つねいえ)が選ばれ、臨戦体制下の鳥取城に入った。 
一方、追放された山名豊国は秀吉に助命され、元家臣団が立て篭もる鳥取城攻めに従軍している。
 天正9年(1581年)城は秀吉は2万の兵で城を取り囲み兵糧攻めを行った。秀吉は戦いの前から巧妙に米の買占めや農民の城への逃亡を促すなど、膨れ上がった籠城兵と農民推定4、000名が篭城すること4ヶ月、兵糧尽きて草木を食いつぶす生き地獄の様相を呈したと伝え、城主吉川経家の城兵助命を条件に切腹で開城された。

 



▲因幡国鳥取城図 江戸中期-後期  国立国会図書館開示

この城図には天守に上る道が2つ描かれている


 ○ 城主の交代

室町時代    山名誠通    
        山名豊定
        武田高信    
安土桃山時代  山名豊国
                     吉川経家
                     宮部継潤・長房 
                     池田長吉    
江戸時代    池田光政          
                     池田光仲
 以下池田家は12代つづき明治維新を迎える

 

 

 ▲城門 

 

▲二の丸の石塁 

 

▲二の丸の背後の稲荷神社が登城口      

 

 

▲かなり急な石段を登る 

 

 

▲本丸虎口の石段                           ▲天守櫓跡 昭和18年の大地震による落石

 

▲本丸の東に見える本陣山(太閤ヶ平たいこうがなる)※秀吉が本陣を構えた山 
  

▲天守櫓からの展望  鳥取砂丘のズーム 馬の背

 

 

雑感 

 本丸からの展望は絶景。平野をつらぬく千代川(せんだいがわ)の流れ、その向うにきらめく湖山池、川沿いの鳥取市街、河口に広がる鳥取砂丘と日本海。
 地元の方の話では、秋の天気のいい日は隠岐の島が見えるとか。山上の丸へは中坂道(なかさかみち)を登ったが、もう一つの道の東坂道が長田神社の左横の谷あいにあるという。次の機会はそこを歩いて見たい。また、太閤ヶ平から秀吉が見た久松山を見てみたいと思っている。



◆ 宍粟(しそう)・播磨の城跡 をご覧ください。http://shiso-sns.jp/community/?bbs_id=122

 


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