タケネットの名城をゆく の「播磨 洲本城をゆく」
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播磨 洲本城をゆく
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2019年03月23日 09:28

播磨 洲本城 をゆく

 

兵庫県洲本市小路谷

 

 ▲大浜からの展望

 

 ▲下の城と上の城           ▲模擬天守

 

 

 実は洲本城は城山に登るまで、島の小さな城だと思っていた。三熊山東麓の歩道を少しばかり歩くと、苔むした堅牢な石垣が現れ、本丸に近づくとそれを取り巻く石垣群にわくわくした。南北600m、東西800mに及ぶ石垣に囲まれた城域の東西を歩くほどに大きな城跡だと実感した。

 

  淡路島の主な城跡の位置

 

 

洲本城のこと

 

▲淡路国本城下之絵図 江戸中期~後期 国立国会図書館蔵 

 

洲本城要図

 

『日本城郭大系』より

 

 洲本城は、三熊山(標高133m)の山上とその山麓北側に築かれた。山上にはじめて城を築いたのは、大永年間(1521~1527)、紀伊水軍の一派の安宅(あたぎ)氏が淡路に進出し由良城(古城)を築き周辺にいくつもの水軍基地として支城を築いたのが始まりで、その一つが洲本城であったという。

 天正9年(1581)に羽柴秀吉の淡路攻めにより古参の仙石秀久が5万石で淡路に入封(にゅうほう)する。秀久が四国攻めで軍功をあげ、四国讃岐に加増され移封する。次に脇坂安冶が3万石で入り、洲本城の大改修を行った。安治は、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で水軍の将として活躍。関ヶ原の戦いでは西軍で出陣していたが、藤堂高虎と内通し、小早川秀秋が寝返ったのをみて、東軍に寝返り西軍の大谷吉継隊を襲撃し、その戦功により本領安堵されている。

 その後藤堂高虎が城代を置いた。次に、姫路城主池田輝政に淡路1国が加増され、淡路は姫路藩に属した。慶長5年(1610)輝政の三男の忠雄(ただかつ)が淡路岩屋城を改築し、由良の成山に由良城を築き、大阪城の包囲の態勢を整えた。
 元和元年(1615年)蜂須賀家政の子至鎮(よししげ)が大阪の陣の功労により徳島に加えて淡路一国を領した。蜂須賀氏の筆頭家老稲田氏が由良城を本拠に淡路を治めていたが、寛永7年(1630)由良から政治の中心を洲本に移し(「由良引け」という。)、三熊山の旧洲本城の北麓の真下に下の城を築いた。この城は須本御殿・御屋敷とよばれている。

庚牛(こうご)事変(稲田騒動)のこと

 明治3年(1870年)、稲田家家臣が明治政府の禄制改革で、このままでは不利な処遇となるため徳島藩から独立・分藩を企てたことに対して、洲本城下で洲本在住の蜂須賀家臣の武士が、筆頭家老稲田邦植の別邸や学問所などを襲った事件

 →詳しくは最下部の「徳島城をゆく」を参照ください。

 

 

▲案内板図に歩いた道を黄・・・で示した


アクセス

大浜の三熊山登山口の案内板に従ってホテルの横から入り、突き当りを右折れに登っていく。距離700mのなだらかな自然歩道で20分程で登れる。

 

 

  ▲大浜の三熊山登山口の案内板          ▲ホテルの横から入り、突き当たりを右

 

 ▲石垣の連なり                  ▲この上が本丸天守台

 

 木漏れ日の落ちる木々の中で、苔むした長い石垣に圧倒される。本丸に入り天守台に登ると洲本八景の大浜大観の絶景にしばし見とれる。

 

 

▲絶好の日和 眼下には大浜の松と青く広がる海が美しい

 

▲北麓のパノラマ風景  

 

 本丸天守台からの展望のあと、本丸東下の段から天守台を見ると荒々しい自然石の上部に高石垣が400年以上も崩れずに頑張っているのは穴太積みという先人の知恵の実証なのだろう。

 

 ▲本丸の東下の段から

 

 ▲本丸と東の丸の間にある日月の池 今でも水をたたえている

 

 ▲本丸の大石段 

 

 

 ▲南向きにある広い馬屋(月見台)       ▲馬屋から 紀淡海峡と左向うに紀州の島が見える

 

 ▲南の丸隅櫓跡 

 

 

 ▲東二ノ門                  ▲東端にある最大の曲輪跡 武者溜

 

 

 西の門                    ▲西の丸 洋風庭園風 

 

 東の武者溜まで行ったあと、またもや引き返して、西の丸まで800mを歩いた。西の門を抜けると途中階段を登りきると西の丸にやってきた。さすがここまでは人はこないようだ。

 

 

 ▲西の丸周辺の石垣

 

雑  感

 

西日本屈指の要塞

 淡路島は水軍との関わりが深い。安宅氏や脇坂氏は水軍拠点として、大阪湾や紀淡海峡の海上を見張る絶好の場所に築城し、城下に良港を配置した。 最初の登城時に途方もない規模の城と感じたが、あとで西日本屈指の要塞だといわれていることを知りなるほどと思った。脇坂氏が城主であった24年の間に三熊山山頂を大要塞に仕立て上げたが、大阪の陣のあと廃城になったことを知ったときはさぞかし残念に思ったに違いない。

 

 

模擬天守(展望台)を見て 

 本丸の北側の天守台に天守に模したコンクリート製天守閣(展望台)が昭和3年に築かれた。もともとこの天守台には天守は築かれなかったという。本来天守が存在しなかった場所に模擬天守を建設したのはどうなのかなと思ったが、それでも90年の時を経た今では模擬天守は天守台と本丸の石垣にマッチし、なかなかの風格がある。ただ最近の修理の後、展望台に上がれなくなったのは残念だ。

参考:日本城郭大系、日本地名大辞典、他


◆阿波 徳島城をゆく
◆ 宍粟(しそう)・播磨の城跡 http://shiso-sns.jp/community/?bbs_id=122

 


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