宍粟・播磨の城跡のアルバム一覧
アルバム一覧の書込一覧です。
播磨 上月城跡 (2)(佐用町)
【閲覧数】18
2019年08月10日 19:14

 

こうづきじょう

上月城跡(2)  佐用郡佐用町上月

 

 

▲佐用川の東岸からの全景

 

 

▲上月城からみた眺め(北東)

 

 

▲播磨上月「浅野文庫 諸国古城之図」広島市立中央図書館蔵

 

三国の境の要衝地

 上月城は兵庫県と岡山県の県境近くにあり、古くは播磨国・美作国・備前国の三国の国境近くに位置し、内陸部の交通の要衝の地にあった。

 

城史・城主のこと

 南北朝以来、室町、戦国の各時代において中世山城が数多く築城された。佐用郡には45程の城跡が確認されているが、城史及び城主について不明または伝承のみで史実の裏付けがとれていないものが多い。

 秀吉軍の攻撃により落城した時の上月城の城主は本丸にある供養碑に赤松政範とあるが、大河ドラマ「軍師官兵衛」では上月景貞としており、諸説あるため確定できていない。

 

赤松氏本城白幡城の北の守り

 室町幕府の樹立に赤松村則(円心)が功績をあげ、播磨守護職を得た。上月城は赤松氏の本城「白幡城」(上郡町)の北の守りとして築城し、城は赤松一族が守り景盛の時初めて上月氏を名乗りそのあと盛忠、義景、景満と続いたと伝わる。

  しかし上月氏の一時期の所領は確認できるものの、上月氏と上月城とのかかわりを示すものは見当たらないという。

 

記録に残る悲劇の城

 兵庫県最西端の駅「上月駅」の少し南に上月城がある。荒神山(標高一四○m)に築かれた小さな城跡なのだが、実は戦国末期に織田方と毛利方の戦場となり多くの兵士と、非戦闘員の村人や女、子どもが犠牲となった悲劇の城である。 

 天正5年(1577)11月秀吉軍は佐用郡に向かい毛利に加担していた福原城を落とし、つかさず上月城を取り囲み、城兵の降伏を許さず切り捨て、落城させた。城内にいた女、子ども200人の内,女は磔(はりつけ)、子供は串刺しにされ、見せしめに三国の境にさらされたのである。

 

尼子家の再興の願い絶たれる

 このあと、秀吉方の尼子氏の遺臣尼子勝久と山中鹿介が上月城を守っていたが、天正6年4月今度は毛利方の大軍が攻め寄せ城を包囲した。それを知った秀吉は反旗を翻した別所長治の三木城を攻略している最中であったが、手勢を割き救出に向かった。高倉山に陣を敷くも時すでに遅く上月城は完全に封鎖されていた。秀吉軍は援軍を受けるも進展せず、6月信長の命が下り三木へ引き上げた。そのため上月城は頼みの援軍に見捨てられたため、7月降伏し尼子勝久とその一党の切腹によって城は開城された。山中鹿介は備中松山(高梁市)に護送中阿井の渡しで殺害された。これにより鹿介が願った出雲の名族尼子家のお家再興の願いは完全に潰えた。

 当時の戦いの様子は最後に勝利した秀吉の記録文書にその子細が残され、また毛利家の文書・吉川家の文書等にも残されている。

 

 上月城山裾の登山口近くに、上月歴史資料館と皆田和紙の紙漉き伝承館がある。毎年10月下旬に上月城ふるさと祭りが盛大に開催される。

 

 

 

 

※情報誌「おくはりま 2017春号」城郭シリーズ執筆掲載より

 

関連

 上月城(1)http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=15046…bbs_id=122

 


播磨 利神城跡 (2)(佐用町)
【閲覧数】11
2019年08月10日 17:52

三重の天守を有し「雲突城」と呼ばれた山城

 

りかんじょう

利神城跡 (2) 佐用郡佐用町平福

 

空から見た利神城(郷土館展示パネルより)

 

▲利神城古図(田住家文書)部分

 

総石垣づくりの山城

 

 利神城は、智頭急行鉄道「平福駅」の背後にそびえる利神山(373m・比高250m))の頂上にあり、規模は東西300m、南北500mに及び、天守丸、本丸、二の丸、三の丸、馬場等の曲輪を配置した総石垣造りで、山裾には大手門の枡形虎口の遺構や御屋敷跡が残っている。

 

 

 

 

利神城の概略

 

 貞和5年(1349)赤松本城白幡城(上郡町)の北の守りとして築かれたと伝わる。赤松氏が嘉吉の乱で衰退した後、応仁元年(1467)赤松再興とともに別所氏が城主となり代々つとめ、天正5年(1577)羽柴秀吉の中国攻めで福原城、上月城の落城のときには織田方に降伏していたため攻撃を免れていたが、のち反抗したために、上月城にいた山中鹿介に攻められ落城したという。その後播磨国を領した宇喜多秀家の領地となるが、関ヶ原の戦いで西軍につき改易となる。関ヶ原の戦いの後、慶長6年(1601)播磨国に入封した池田輝政が姫路城の支城として甥の池田由之に利神城の改修を命じた。

 

 その後由之は慶長12年(1607)に備前下津井に転封。城主は輝政の弟長政、妻・良正院、子・輝興と移り、寛永8年(1631)に輝興が赤穂に転封し廃城となった。輝興が平福を去ったあと、旗本松平康朗が宿場町の一角に代官陣屋を置き、明治までこの地を治めている。

 

池田輝政、天守の破却を命ず?

 

 伝説では、5年もの歳月を掛けて完成した利神城に足を運んだ輝政は釜須坂を越え、遠目に見た城があまりにも壮大であり、由之に異心有りと感じ、すぐさま姫路に引き返し、慶長10年(1605)年頃天守の破却を命じたという。

 由之が完成させた利神城は三重の天守を有し雲海に浮かび上がるさまから「雲突城(くもつきじょう)」とも呼ばれた。この完成直後の天守破却の伝説はインパクトがあるが、破却は慶長20年(1615)の江戸幕府の一国一城令のときではないかといわれている。そうであるなら10年間程はその雄姿を見せていたといえる。

 

本格的城郭構造をもつ利神城  

 

 近年佐用川の護岸工事に伴う御殿屋敷跡の発掘調査が行われた。それによると利神城築城と同時期に山麓の屋敷跡が大規模な石塁による南北の区画と堀が築かれ、本格的な城郭構造を持っていることと、良好な状態で残された貴重なものであることがわかった。

 

 

宿場町として栄えた平福

 

 江戸時代平福は因幡街道の宿場町として栄えた。鳥取藩の参勤交代では用瀬・智頭を抜け、志戸坂峠の難所を越え大原・平福の本陣を利用した。平福は宿場町の古い町並みを今に残す落ち着いた名所である。

 

 

「平福郷土館」には、利神城の説明パネル、鯱瓦、土器などが展示されている。

 

 

 

 

※情報誌「おくはりま 2016秋号」の城郭シリーズ 執筆掲載より(一部修正あり)

 

 

関連

・利神城(1) http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=14900…bbs_id=122


播磨 谷城跡(2) (市川町)
【閲覧数】24
2019年08月07日 12:50

 

 

播磨 谷城跡 (2)   神崎郡市川町谷 

 

 

 

永良(ながら)氏の城「谷城」

 

 市川は、兵庫県中部の朝来市生野町の三国山(標高855m)に源流を発し神崎郡域を南流し、姫路市飾磨区で播磨灘に注いでいる。

 古くからその市川沿いには播磨と但馬を結ぶ街道が発達していた。その交通の要衝に多くの城跡・砦跡が残されている。それは室町期以降に赤松一族により播磨の北部の守りとして築城されたものであった。

  永良荘(荘園)を支配した赤松一族はこの地名から永良と名乗っている。

永良氏は、古城山(標高206m)に谷城を築き、その後北峰つづきの稲荷山にも城を築いている。谷城は本郭(本丸)・北郭・南郭・堀切・土塁・井戸跡等が整然と残された中世播磨のモデル的な城跡である。

 

 

   

▲城図 作図:藤原孝三氏  一部着色

 

 

▲主郭(本丸)

 

▲主郭から西方面の眺め

 

 

 赤松氏と山名氏の争い

 

 嘉吉元年(1441年)播磨守護職の赤松満祐が室町幕府第六代将軍足利義教を殺害した(嘉吉の乱)。但馬の山名宗全(持豊)は幕府軍の総大将として生野のより進入し、赤松軍を撃破し、城山城(たつの市)で赤松満祐を倒した。宗全は、その功により播磨を手にした。しかし赤松の遺臣たちの悲願により赤松が再興し、応仁の乱で山名氏を播磨から駆逐し、赤松政則が播磨守護職に返り咲いた。

 生野から飾磨の街道は、赤松・山名の両武将たちが刃を手に北に南に駆け巡った戦いの街道だったといえる

 

 

谷城の落城

 

 戦国時代の谷城主永良氏の動きは不明だが、赤松総領家と赤松の重臣であった浦上氏との抗争で赤松方として戦い浦上氏に敗れ落城したと考えられる。

 天正5年(1577年)以降羽柴秀吉の播磨侵攻により赤松総領家の置塩城主赤松則房は秀吉の臣下となった。同時に市川流域の赤松の家臣もそれに従っているので、従来秀吉によって落城したという伝承は根拠のないものとなった。

 

 

 

▲城跡の案内図           

 

谷城址一帯は里山の自然公園として整備され、大歳神社から ハイキングコースが設けられている

 

※ 地域情報誌「おくはりま 2016春号 」 城跡シリーズ執筆掲載より

 

【関連】

・谷城跡(1) http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=20102…1389862236 

・鶴居 稲荷山城 http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=20347…1395031492

 

※宍粟・播磨の城跡 http://shiso-sns.jp/community/?bbs_id=122

 


播磨 春日山城 (2)(福崎町)
【閲覧数】36
2019年08月01日 00:10

 

播磨 春日山城(2)   福崎町八千種


 春日山城は、福崎町八千草の飯盛山(198m)山頂にあり主郭(南北約30m×15m)とそれを取り巻く数段の帯曲輪と竪堀跡等が残る。北の尾根筋城が大手道で、搦め手は南のキャンプ場から登山道が敷かれている。主郭からの展望はすばらしく福崎の平野部が一望できる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鎌倉幕府の御家人後藤氏の城


 春日山城は後藤基明が室町時代当初の建武年間(1334~38)に飯盛山に築いたといわれている。後藤家は鎌倉幕府の代々の有力な御家人であり、鎌倉末期後藤基明は、赤松円心に従い倒幕と室町幕府の成立に活躍した。円心が播磨守護となり、後藤氏は赤松家臣として春日山城を根拠に福崎、姫路北部、加西の一部を治めていた。

 


秀吉軍に反旗をひるがえし戦死


 織田信長の播磨進攻当初は播磨の武将の多くは信長に恭順する動きがあったが、天正5年(1577)加古川城での加古川評定を機に、三木城の別所氏を中心として御着城の小寺氏・長水城の宇野氏等は毛利と結び信長に反旗を翻した。このとき後藤氏は三木城主別所氏に組みしたようだ。伝承では、春日城落城は三木城合戦の始まってまもない天正6年(1578)5月、基信はこの城で戦い亡くなったと伝える。

 


後藤又兵衛ゆかりの城


 大河ドラマ「軍師官兵衛」「真田丸」に登場する後藤又兵衛(基次)の本家が春日山城の後藤家であり、この城は又兵衛ゆかりの城といえる。
又兵衛が生まれた地は、『播磨鑑』には神東郡山田村(姫路市山田町)、『大日本史』に永禄3年(1560)加西郡山下村(加西市山下町)の記述がある。父は小寺政職に仕えていた後藤新左衛門(基国)の次男として生まれ、又兵衛が幼少のころ父が亡くなり、黒田官兵衛のもとで養育され、官兵衛の子長政とは幼少のときから兄弟同様に育てられたという。

 


又兵衛、大阪夏の陣で壮絶な最期


 天正6年(1578年)、黒田孝高が荒木村重によって有岡城に幽閉された際、黒田家家臣一同が織田信長への忠誠の誓紙の署名に又兵衛の母方の伯父・藤岡九兵衛が拒否したため又兵衛(16歳頃)共々一族追放となり、秀吉家臣仙石秀久に預けられた。その後、長政に呼び戻され、又兵衛24歳にして知行百石で官兵衛の家老栗山善助(利安)の与力となった。


 慶長11年(1606)又兵衛は長政との不仲により一族とともに黒田家を出奔する。長政は又兵衛に対し「奉公構」(他家への再仕官を禁じる回状)を発し、又兵衛は仕官の道を閉ざされてしまい、浪人を余儀なくされた。慶長19~20年(1614~15)大坂の陣で、豊臣秀頼の旗頭として出陣。夏の陣にて孤軍奮闘するも多勢に無勢の中、討死した。ときに又兵衛56歳

 

 

▼春日山城跡の北方に城主後藤氏ゆかりの嶺雲寺、余田大歳神社がある。

  

 

 

 

※地域情報誌「おくはりま 2017冬号」 城跡シリーズ執筆掲載より

 

【関連】

 後藤又兵衛が居城した南山田城跡(姫路市) http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=21015…bbs_id=122

 

※宍粟・播磨の城跡 http://shiso-sns.jp/community/?bbs_id=122


鍋子城跡 (赤穂市)
【閲覧数】70
2019年07月30日 13:07

 

 なべこじょう

鍋子城跡  赤穂市東有年谷口

 

 ▲鍋子城跡全景

 

 ▲全景(左端の山) 北東から 

 

▲大きく蛇行する千種川に接した三角状の鍋子山城跡(北方の有年・八幡山城跡から)

 

 千種川に流れ込む長谷川が合流する地点から南にかけて千種川西岸に面した岩山(標高147m、比高約130m)にある。頂上に主郭とその北・南にかけて階段状に曲輪がつづく。西側には虎口や土塁があり、石垣の一部が残されている。川に面した急斜面の中ほどの岩場にきれいな水をたたえた泉がある。小規模ながら中世・戦国期の山城の特徴をもった城跡である。
 城の築城時期は不明。城主についても伝承はいくつかあるもののそれを裏付けるものはない。
 頂上からは北に東有年の八幡山城、南東部に尼子山城が望める位置にあり、八幡山城の支城として千種川の西岸で赤穂につながる有年道を押さえていたと考えられる。

 

【伝承の記録】
・『赤松家播備作城記』(1700年頃)には「神口重豊元亀年中居城し、戸田右京三年居し城東有る八幡山城に移り、浦上近江守宗景に攻落なり。岡豊前守天正年中居城、文禄年中に破城」とある。
・『播磨鑑』には、「岡前豊前守、小河丹後守、富田右京居住し、右京が八幡山城を築き居住するも浦上宗景の為に亡くなる。一説に小河丹後守秀春が天正五年(1577)小鷹の城において戦死、小鷹山に塚有り」とある。
・『岡城記』という江戸時代の旧家・岡家(赤穂郡八洞村・相生市)の由緒書に、城主は岡豊前守(天正から文禄年間)とある。播磨国知行割覚『海老名文書』には秀吉政権下、岡豊前守は宇喜多秀家の家臣で有年や加里屋等の千種川西岸に所領を与えられている。

 

 

 鍋子城図  作図高島敏郎氏

 

 

 

アクセス

 

 

 

 

城山東山麓の川に面する県道沿いに擁壁を利用した階段に鳥居がある。

これが登城口になる。20分程で登城できる。

 

▲途中から北方に八幡山城が見える

 

 

 

 途中大師堂を横切り岩場に上り詰めると、鍋子城の水の手であったと思われる岩の井戸がある。かつて大瀧権現として祀られていた。ここから岩場となり左にすすむと仏堂があり、その上部あたりから削平地が現れる。冬場は落ち葉に覆われているが、頂上まですぐである。

 

 

 

 

 

 

 

 ▲頂上にある主郭

 

 

 

▲南に尼子山城(相生市)が見える。

 

 

見どころは、東の中腹。大きくえぐられた堀切や土塁跡。初めて訪れた3年前、東の谷から登り、この土塁と堀切に圧倒された。

 

 

 

▲大きくえぐられた堀切

 

▲虎口の石垣跡

 

 

雑 感

 

 数ある播磨の城跡の中で最も登城に時間がかからない山城です。それは、東斜面の泉の出る場所が大滝権現として祀られ、参拝の階段が敷かれたことによって、急な斜面も簡単に登れるようになったからです。現在は放置され、足場がやや危険な状態となりつつあります。

 本来ならば、武将たちが行き来した道、西の谷からつづく大手道を辿るのもよいのですが、登り口付近までは砕石工場のダンプの往来がひんぱんで注意が必要です。

 

 この鍋子城は、別名大鷹山城、谷口城、中山城ともいわれるが、『赤松播備作城記』には北方にある八幡山城(有年城)のことを大鷹山城としている。つまり大鷹山城は二つ存在しています。

 その理由を日本城郭大系では3年間鍋子城にいた戸田(富田)氏が八幡山に移ったその山に、前にいた鍋子城と同じ山名の大鷹山と名付けたのではないかと推測しているが、なんとも言えない。『播磨鑑』に小鷹山(城)のことが記されているが、大鷲に対しての小鷹という塚のある山はどこにあるのだろうか。

 

 歴史に名を留めなかった鍋子城、混乱させる二つの大鷲山。そんな鍋子城ですが、最近の調査でわかってきたことがあります。戦国末期、この有年の地は毛利方に与していた宇喜多の支配地であり、羽柴秀吉が宇喜多攻略の足掛かりとして宇喜多支配下の八幡山城を北に見通せるこの鍋子山城を奪取し、付城として利用したのではないかという説が浮上しています。土塁・虎口の造りなどは、織田方の手法ではないかと分析しています。

 

 

参考文献

『日本城郭大系』、『近畿の城郭 Ⅱ』

 

[関連]

有年・八幡山城 http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=22473…1549529504

 

 

 

 

 


有年・八幡山城跡(赤穂市東有年)
【閲覧数】483
2019年02月07日 12:47

 う ね   はちまんやまじょうあと 

有年・八幡山城跡  赤穂市東有年

 

 ▲八幡山城全景(南から) 城の南麓には千種川が大きく蛇行する

 

 ▲千種川の東岸(有年橋東詰)から望む

 

  

有年・八幡城のこと

 

 有年・八幡山城(別名、有年城・鷹山城)は標高220mの大鷲山の頂上に本丸(東西25m南北14m)があり、曲輪、土塁、堀切、井戸等が残され戦国期の特徴を有する城跡である。
築城の時期は不明である。城主は本郷直頼(赤松円心の長男範資の三男)が暦応年中(1338~42)佐用郡船曳庄よりこの城に在城し、以後富田(戸田)氏、小田氏、小河氏の名が伝わっている。
 戦国末期天正6年(1578)宇喜多直家のとき、この城や駒山城(上郡町)が上月城攻めの軍事拠点としたと考えられ、八幡山城には宇喜多家臣の明石飛騨守を配したと伝わる。


戦国末期の宇喜多直家の動き
 天正3年(1575)宇喜多直家は主君であった浦上宗景の天神山城(和気町)を落とし、赤穂郡・佐用郡・備前は宇喜多の支配地となっていた。天正5年(1587)秀吉の中国攻めの時、宇喜多氏は毛利側につき、毛利の尖兵となり羽柴軍の備前侵攻を阻止するべく秀吉方の赤松広英の龍野や赤松則房の置塩城(夢前町)にまで侵入し交戦している。天正6年(1588)7月毛利方の小早川景隆景・吉川元春が尼子勝久・山中鹿介が守る上月城を陥れた後、八幡山城の北西にある黒沢山光明寺跡に陣替している。宇喜多は上月落城後まもなく、織田方に寝返えった。その後、佐用郡・赤穂郡を織田信長より安堵されている。

 

『諸国廃城考』(江戸中期)には「八幡山城 明石飛騨守此城に居る。天正六年三月、吉川元春、小早川隆景、上月城を攻める時、宇喜多直家存る旨有て病と称し明石長船以下差下しけるが、上月落去の後直家彼表へ打出、当城にて両川を饗応に託して内果さんとするを飛騨守より密に告けければ、両将兵を引てぞ帰りける。」とある。
『信長公記』(巻11)には「(天正六年)五月廿四日 竹中半兵衛申上候之子細ㇵ備前内八幡山之城主 御身方仕候由申越候被成」とあり毛利が上月城を取り巻いている最中に、竹中半兵衛が信長に八幡山の城主が味方になった旨を報告しており、宇喜多は毛利方として出兵や諸城を軍事拠点として協力しながらも、織田方に寝返りの意志を固めつつ、そのチャンスを窺っていたと考えられる。

 

 

参考:『日本城郭大系』、『上月合戦~織田と毛利の争奪戦~』、『近畿の城郭Ⅲ』

 

 

アクセス

 

 ▲位置図

 

▲ 八幡山城図 (作図 高島敏郎氏)

 

神社前の道路脇に数台の駐車スペースがある。

 

 

 ▲神社の鳥居

 

まずは神社の鳥居をくぐって、八幡神社を目指す。

 

 

 ▲八幡神社

 

八幡神社の裏手に城山に登る道がつづく。

 

 

 

 

大きな岩が立ちはだかる。岩の隙間を抜けると、眼下がひろがる。

 

 ▲城山の途中から南を望む 右手前の山に鍋子城跡がある

 

鉄塔のあたりから曲輪跡が見られる。登り切った頂上に主郭(本丸)がある。

約40分ほど要する。

 

▲本丸(主郭)

 

▲城の東方面 千種川が城の東麓に南北に流れる

※江戸期を通じて橋はなく、川待ちをする旅人の宿場町として「有年宿」が栄えた。

 

▲右(東)方面  尾根筋には曲輪跡がつづく

 

 

▲左(西)方面 穏やかに曲輪跡がつづく ▲大きな謎の穴がいくつかある  

 

▲西(西有年)方面 古くは旧山陽道があり上郡町の船坂峠を越えると備前国に至る

 

□ 有年地区の山城跡

 ※上図は、赤穂市教育委員会作成の「有年の歴史文化」に使われた図面に書き込みをしたものです

 

  

 ▲南東に上図にある鴾ケ堂城跡展望台が見える(望遠)

 


雑感


 何の予備知識をもたない8,9年前にこの八幡山城を登城しようと思い、地元の方に聞いたところ、あの山には何もありませんよと言われて、神社の裏の尾根筋まで登りながら諦めて帰りました。そのあと探索は後回しになっていましたが、その後城郭本やネットで紹介されるようになり登城しています。
 数年前より山城探索も備前南部方面にも足を運ぶようになり、宇喜多直家の誕生地と伝わる備前砥石城(瀬戸内市)に訪れて以来、宇喜多一族に興味を持ち始めています。よく歴史上の人物に使われる梟雄(きょうゆう)という言葉を知ったのもこの人からだったように思います。宇喜多氏も歴史小説など読み物で悪人として描かれることが多いですが、最近の研究でそうではない一面が浮上し名誉回復途上というところでしょうか。

 このあと八幡山城周辺の鍋子城、後藤陣、黒沢山光明寺陣そして宇喜多氏ゆかりの備前の諸城もいずれ紹介していきたいと思っています。

 

 

【関連】

・駒山城  http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=14720…1320990856

・上月城(3) http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=15125…1326341098

 

※宍粟・播磨の城跡  http://shiso-sns.jp/community/?bbs_id=122


徳久城跡(佐用町東徳久)
【閲覧数】1,124
2018年10月04日 13:37

 とくさ
徳久城(柏原城)跡 佐用町東徳久

 

 

 

 ▲徳久城(柏原城)図 作図高島敏郎氏    (名称加筆・着色)


 徳久城(柏原城)は千種川(熊見川)東岸の殿崎集落の東にそびえる標高380mの山頂にある。尾根筋上には堀切・竪堀そして10数個の小曲輪があり、山頂部に12m×21mの主郭がある。宇野氏の本城熊見城(米田城)の北の守りの支城としたものと考えられている。
 城主は柏原弥三郎為永が建保年中(1213~19)に築いたとある「赤松家播備作城記」。為永は宇野氏の出で、父頼宗が宍粟郡柏原城主であったことから、柏原氏を名乗り柏原弥三郎為永と称し、その子永利の代に嘉吉の乱(1441)に山名氏に滅ぼされたと伝わるものの、健保年中から嘉吉の乱までの200年に頼宗・為永・永利の3代しかないのは、年代が合わない。
 その後、天正5年(1577)時の城主間島景綱は秀吉が中国攻めに先立ち佐用郡に進出してきた際、廃城したという。

 

柏原氏のこと


 建久2年(1191)山田則景が播磨国佐用郡の佐用庄(荘園)地頭職を補任されてより、一族はその後郡内各地に土着し、夫々の地名を苗字に名乗っていった。佐用庄(さよのしょう)は九条家領で佐用郡内の三分の二を占め、宍粟郡と赤穂郡にまたがる広大な荘園であった。佐用庄の外には江川庄・豊福庄・本位庄・宇野庄・広岡庄・船曳庄等があった。そこに宇野氏・赤松氏・佐用氏・得平氏・櫛田氏・上月氏・間島氏・本郷(船曳)氏・江見氏・別所氏そして柏原氏などの数多くの一族が生まれた。
 「吾妻鑑」(鎌倉期史書)に柏原氏の名が見られる。柏原氏は柏原(かしわばら)荘(平松村・西徳久村・東徳久村・林崎村の地域)を領分としていたようである。現在でもこの地域では柏原の姓がiいくつか残っている。

 

▲宇野氏系図(長谷川家赤松系図) 三日月町史より

 

 宇野氏系図には徳久城主柏原為永の父は宍粟郡柏原構 柏原三郎頼宗とある。鎌倉期に始まる佐用郡の宇野氏は東に隣接する宍粟郡山崎町域の高家荘・柏野荘にも進出したと考えられる。則景の末子の家範が佐用庄の南端の赤松村(上郡町)で初めて赤松を名乗ったとされ赤松の祖といわれている。その4代目に赤松則村(円心)が室町期に播磨国守護職を得、二男貞範、その子顕則に至って初めて宍粟郡山崎町に篠ノ丸城や長水城が築かれ、15世紀後期に宇野氏が播磨国守護代となって宍粟郡を基盤に勢力を保ち周辺にも影響力を持った。
 ただ宇野氏系図にある宍粟郡柏原構はどこなのかについては宍粟郡には柏原という地名はなく、この徳久城のことなのかも知れないし、存在したとすれば宍粟郡ではなく佐用郡のどこかにあったと思われる。

 

 では、宍粟郡金谷の柏原城はどうなのかということだが、この城跡は宍粟郡と揖西郡(新宮町)の郡境上あり、羽柴秀吉の宇野攻めの陣城(付城)であると考えられ、この城が柏原城と名付けられたことに違和感を覚えている。
 ちなみに古書による柏原城の記述については、「赤松家播備作城記」(江戸初期・元禄時代)には記載がなく、地誌「播磨鑑」(江戸期)に宍粟郡古城跡・構居の項に、【柏原城】城主早瀬帯刀正義居【同構居】柏原三郎頼宗」と伝承を伝えているのみで、それも宍粟郡の具体的な住所は示されてはいないのである。

 この城主の早瀬帯刀正義については、文政8年(1825)太平山二百五〇回忌(上月城落城後250年の法要)の城主赤松蔵人大輔政範以下城兵討死者の名簿に「早瀬帯刀正義 政範舎弟 叔父 東櫓矢倉大将 宍粟郡柏原城主」とある『上月町史』。これによると早瀬正義は上月城主赤松政範の叔父にあたり天正5年(1577)に上月城にて討死ということになる。ちなみに上月城本丸跡にある赤松政範の墓碑はこのとき建立されたものである。

 

アクセス

 

 

 ▲登城ルート イメージ

 

 東徳久の殿崎公民館に車を止めさせてもらう。ここから北にむかい集落のはずれの右手に入っていくと防獣フェンスがあるのでそこを開けて入っていく。

 

 

 ▲殿崎倶楽部(公民館)            ▲フェンス

 

フェンスから少し進み左の山斜面を登って行く。道が荒れていてわかりずらいが、木のマーキングテープを見つけてそれを頼りに、登って行くと尾根に至る。ここから約30分ほどのコースとなる。

 

 

 ▲左上の傾斜を登る          ▲墓の手前あたり

 

    

▲マーキング             ▲もうすぐ尾根筋

 

   

▲登ってきた方向を望む        

 

       

 ▲堀切

 

▲途中から南を望む

 

 

▲主郭付近

               

▲頂上の主郭 

 

 

▲主郭の奥にある堀切の一つ

 

 

雑 感


 昭和39年発行の三日月町史のあとがきには、「地方に残されている資料の文献、記録、文書、系図などほとんどが後の江戸時代に作られたもので、そこには伝説や不確実なものが多くそれをどこまで歴史としてとりあげるかに大きな悩みを感じました。」とあった。当時赤松研究はまだ途についていない時期であったので編纂の苦労を推し測ることができる。
 たしかに佐用郡の諸氏の発生を系図を元に探るのに町史や佐用郡誌等に掲示されたものには異同が多い。その理由は赤松氏が正当な後継者であることを示すために系図を意図的に作りあげたためではないかといわれている
 佐用庄の地頭に補任した山田則景の山田の姓は佐用町の西の字山田からという。則景は宇野則景とある系図があり、また赤松氏の一族に宇野氏を名乗る者が見られるのは、宇野氏が一族の本姓であること暗に示したものであろうと考えられるようになった。
 このように見てみると、赤松則景ではなく宇野則景として据えることにより赤松の位置づけと赤松以前の諸氏との関係が見え、今回の徳久城の紹介が今後の佐用の城の歴史や人物を見ていくうえで手掛かりになったように思う。

 

参考:「南光町史」、「三日月町史」、「佐用郡誌」、「日本城郭大系、「日本城郭全集」、「web 宇野氏 武家家伝」

 

関連 

・柏原城 ~秀吉の陣城か~  http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=21416…1457230675

 

※宍粟・播磨の城跡 http://shiso-sns.jp/community/?bbs_id=122


宍粟藩初代藩主池田輝澄の足跡をたどる
【閲覧数】632
2018年09月05日 12:49

 

宍粟藩初代藩主池田輝澄の足跡をたどる



輝澄、宍粟郡入封前に相次ぐ父母兄弟の死


 池田輝澄は慶長9年(1604)姫路城主池田輝政の四男として姫路に生まれ、元和元年(1615)6月28日に播磨国宍粟郡3万8千石を受領し、初代宍粟藩主となった。輝澄は若干十二歳であった。二年前の慶長18年(1613)父輝政の死去により遺産配分や相続が決められたが、二年後の元和元年に母督姫(徳川家康娘)と兄忠継が亡くなったことにより、輝澄が宍粟藩を立てることになった。
 輝澄は山崎城を建造すると母と祖母(西郡の局)の菩提寺である青蓮寺を姫路から山崎町山田町に移転している。入封直前に母の死があったからである。

 


 寛永3年(1626)輝澄は京都の二条城で乗馬の達者に選ばれみごとな馬芸を披露し大御所(秀忠)、三代将軍家光から褒美を受けた。若き輝澄は山崎城の南の段丘下の東西124間(約230m)の「桜の馬場」で、日々馬術の鍛錬をしたのに違いない。


家中騒動起きる(概要)


 輝澄は寛永9年(1631)弟赤穂藩主政綱が没し、佐用郡2万5千石が加封され6万3千石となる。その二年後参勤交代の途上、病に倒れてのち江戸住まいとなっていた。国元には上席家老伊木伊織が藩政を預かっていた。そんな最中の寛永15年(1638)藩を揺るがす家中騒動が起きた。元は小頭と足軽の金銭の貸し借りという些細なもめ事であった。一旦は収まっていたのだが、内部裁定に対する不満が再燃し、古参の家老伊木伊織と新参の家老小河四郎右衛門の争いとなった。輝澄の側近にいた菅友伯(儒学者)が主君輝澄に事実を伝えず、偽書まで作成し小河家老に加担したことが騒ぎを拡大させていった。一門の岡山藩主池田光政が元のように伊木に職を勤めさせ静かに治めるよう申し入れるが、輝澄は聞き入れず、伊木家老等が集団脱藩するという事態にまで発展し、結果幕府は脱藩者及び友伯や当事者に厳罰を処し、宍粟藩は改易という厳しい裁定が下されたのである。


輝澄因州鹿野に蟄居(ちっきょ)


「諸事集書」に、改易の理由として次の三つが輝澄に示された。


輝澄エ被仰渡
一惣領虎之介(輝澄二男)病気不申上事
一家中仕置悪ク騒動之事
一一門之異見不聞事 

  
 注目すべきはこの三つ目の異見不聞事で、幕府は輝澄が池田一門の説得を拒んだことをあげており、逆に言えば池田一門への信頼があったことを表している。
 改易された藩主輝澄は因州鹿野に堪忍料一万石を与えられ、因州鹿野(鳥取市鹿野町)へ、蟄居を命じられた。兄忠雄(ただかつ)の子鳥取藩主池田光仲にお預けとなった。
 さらに「諸事集書」には、「石見守乱心之躰相聞候」、「万事心付差置候様家来共申付」とあることから、幕府は光仲の家来にも輝澄は心乱している状態なので、厳しく扱わず気を付けるよう指示している。蟄居といえども自由度の高い配慮を求めているのである。それを裏付けるかのように輝澄が湖山池周辺に鷹狩りに出かけたことが書状に残されている。


▲鹿野城跡公園

 

▲輝澄居住時代の庭園(光輪寺) 


 将軍家光は厳しく大名統制をすすめ、多くの諸藩が改易されるも、宍粟藩は徳川縁故の例外を許さなかった。ただ、藩主の処分に関しては甘く、おだやかな隠居的対応であり、そこに将軍家の恩情があったように感じられる。輝澄は蟄居後、剃髪し石入と号したと諸書にあり、そのため石入と号したのは蟄居が起因になったと広く一般に理解されてきた。しかしそうではないことがわかった。鳥取藩の勤番家老による日記「控帳」から慶安四年(1651)に夫人が亡くなるまでは従来通り石見守と称し、夫人の死去から石入と号したことが明らかになったのである。このことは輝澄の一面を知るうえで重要である。
 夫人の死と同年に将軍家光も死去した。家光と輝澄は徳川家康の内孫と外孫の関係で二人は同い年でもあった。

 

蟄居の赦免と政直の福本藩立藩


 明暦四年(1658)輝澄四男政直が光仲・光政(岡山藩主)の願いにより赦免され、江戸に召し出され、第四代将軍家綱に拝謁した。「控帳」には同年輝澄は改易後初めて鳥取城へ登城し、(鳥取)東照宮御祭礼にも出向いている。この頃名実ともに父子の蟄居が赦免され、以後行動が活発化していることが確認されている。
 寛文2年(1662)輝澄死去、享年五九歳であった。嫡子政直は父輝澄の遺領分一万石を相続し福本藩を立藩したのである。

 

※この記事は「城郭研究室年報」vol 26に掲載された『「諸事集書」と池田輝澄について』、新鳥取県史編纂委員の伊藤康晴氏の研究内容を元に作成したものです。

 

【山崎郷土研究会報 NO.131 平成30.8.26発行 より転載】

 

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 付 記

 

 池田輝澄については、以前山崎城(鹿沢城)宍粟藩 藩政崩壊への道(その1・2)で取り上げました。その時は因幡鳥取の鹿野町に蟄居となった晩年のことは知り得なかったが、その後伊藤康晴氏の研究により詳しく知ることができた。
 輝澄が仏門に入り石入と号したことはよく知られているが、石入と号したことは「自らの失策による藩の崩壊の責任と一身にその責を負った古参家老伊木伊織をはじめ多くの者を死に至らしめたせめてもの償いのためだったと思いたい。」と藩政崩壊への道の最後に書いていた。
 しかし私の思いは裏切られがっかりもしたが、今回輝澄に関する様々な足跡(記録)を知ることにより輝澄の人物像がより見えてきたことだった。
 参勤交代で発病した輝澄の病が心の病であったことや、国元とは遠く離れた江戸表にあって側近の菅友伯が差配していたことが、藩崩壊の元凶ともいえる。それでもこの騒動を食い止める方策は池田一門にはあった。しかし輝澄がかたくなにそれを拒否したため、最後のチャンスを失ってしまったのである。
 徳川家ゆかりの嘱望されていたはずの輝澄の人生最大の失策は、池田一門の意見に耳を貸さなかったことに尽きる。ではなぜかたくなに拒否したかについては、知る由もない。

 

 

 

関連

 〇宍粟藩 藩政崩壊への道(その1)http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=17826…1364733141

 〇宍粟藩 藩政崩壊への道(その2)http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=17838…1364862038

 〇因幡 鹿野城  http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=17811…bbs_id=122

 

マップ表示は鳥取市鹿野町の輝澄居住時代の庭園のある光輪寺

 

 

 


宍粟山崎 本多まつり 11月4日(日)午前11時より開催
【閲覧数】446
2018年09月11日 14:05

なにやら山崎城本丸が怪しい!!

 

甲冑の出で立ちの武将たちが誘う いにしへの世界へ タイムスリップ

 

11月4日(日)午前11時~午後4時 小雨決行

会場 本多公園(山崎城本丸跡)

駐車場 市民局跡地・本多公園駐車場

主催 山崎本多まつり実行委員会

 

楽しいイベントがいっぱい、ちょっとのぞいてみませんか。

 

 

 

 


寺前城跡(神河町)
【閲覧数】554
2018年05月17日 23:01

 

寺前城跡   神崎郡神河町寺前

 

▲寺前城全景

 

▲城山からの風景

 

  寺前城跡は播但の南北に流れる市川の中流域神河町寺前にある。城跡は市川と支流田原川との合流点の北に裾野を大きく広げた城山の山頂にある。

  この寺前という地名は、鎌倉時代の建長7年(1255)北条時頼がこの地に逗留し、伽藍が再建され、寺の前にある村であったことから名づけられたという。

 

寺前城跡のこと

 

  城域は、城山(約460m、比高約350m)の頂上部、東西約110m、南北約75mあり、南から北へ続く尾根筋上に「口の城」、「奥城」があり、最上部の主郭(約10m四方)とその周囲に数段の帯曲輪が取り巻いている。主郭の北側には土塁跡が残り、その外辺には石積みが見られる。

 奥城の主郭の北側と口の城の北側に堀切があり、北部と南部の尾根筋からの侵入を防いでいる。口の城からの展望がよく、かつて大河内庄と呼ばれた庄園が手に取るように見通せる。

 

 

 

▲口の城の堀切

 

▲主郭と帯曲輪

 

城主と戦いの記録

 

 城主や城史については、詳しくはわかっていない。伝承では、本郷伊豆守また大河内阿波守とも伝わっている。

 文献には、正平6年(1351)大河内合戦で赤松則祐と山名時氏が「大河内城」で戦ったとあり、この大河内城は寺前城を指すと考えられている。天文13年(1544)、大河内阿波守が西明寺(最明寺カ)において討死している。「書写山十地坊過去帳」 

 

 戦国末期の天正6年(1578)長水城主(宍粟市)宇野祐清の軍勢が大河内表(寺前カ)へ押し寄せ、置塩城主赤松則房の軍勢の柏尾城主粟生田氏(神河町)・飯盛山城主高橋氏(市川町)と激戦を交え、双方に犠牲が出ている。「上月文書」、「安積文書」

 

  

 ▲宇野祐清軍の大河内表(寺前)への攻撃ルート推定図 

 

 

▲最明寺 

         

城山の山麓に居館跡

       

 寺前集落の東端、金谷神社の西側一帯に相当の手を加えた構・居館跡がある。それは東西約50m、南北約15mにわたり数段の土塁跡と石垣跡が残されている。

 神河町は生野街道の要衝地にあり、播磨赤松氏と但馬山名氏との攻防の地となり、戦国末期には羽柴秀吉の播磨侵攻によって赤松一族が敵味方となり争っていたのである。

 

 

 ▲構跡と思われる石垣 

 

※「史料提供:喜多宏高氏」 

おくはりま 2017vol.9 Autumnより転載 写真・図追加

 

 

アクセス

 

 

 

  城山の南麓にある最明寺の左詰めの防獣フェンスを開け、登って行く。

 

  

 ▲最明寺境内の左詰             ▲この先が登城口

 

 尾根筋に向かって左寄りに登って行くと、石仏が建ち並んでいる。山道に添う杉の木にマーキングがあるので、それを頼りに登ればまず迷うことはない。杉林が終わったところからは、やや急斜面になり、ロープが用意されているところがある。

 

 

 ▲フェンスが登城口になる           ▲石仏が立ち並ぶ

 

 

▲杉の木のマーキング            ▲杉林を過ぎるといよいよ城跡は近い

 

 約30分で、「口の城」と名付けられた曲輪跡に到着した。寺前城跡と標識が建てられているが、主郭のある「奥の城」はこの先にある。

 この曲輪からの展望は格別である。この最初の曲輪の先には堀切があり、見張り台として機能をしていたことが容易にわかる。

 

 

 

▲寺前城跡の標識                 ▲最初の堀切     

              

 

堀切を超えるとなだらかな尾根筋となり、次の傾斜を登り切ったところが主郭のある「奥の城」だ。

 

  

 ▲盛り上がったところが主郭

 

帯曲輪の上部が主郭(本丸)。その北端には櫓跡と思われる土塁があり、その外側には石積みが見られる。左手の西側にかけて帯曲輪が見られる。

 

  

▲櫓跡の石積                  ▲西から見た櫓跡(土塁跡)

 

 

主郭の右(北東)に降りていくと、堀切がある。これは北東に続く尾根筋からの侵入を防いでいる。

 

 

 ▲主郭の堀切

 

▲主郭の北につながる尾根筋からみた展望

 

 

東山麓の構・居館跡

 

 東山麓にあたる寺前集落の東端に金谷神社があり、その玉垣の左端から斜面を登ると、石垣や石列が棚状に見られ、構跡と屋敷跡と思われる遺構が続いている。

 

   

 

 

 

 

 

 


書き込み数は2件です。
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Re[2]: 大聖寺山城跡(上郡町)
【返信元】 Re: 大聖寺山城跡(上郡町)
2017年11月06日 09:30
おはようございます。

山々が色づくいい時候になりました。いよいよ山城探索の季節ですね。
 
当方の動きは、少人数で不定期なものですが、はやめに連絡するようにします。
日程調整のうえ、一緒に行動がとれればと思います。
Re: 大聖寺山城跡(上郡町)
【返信元】 大聖寺山城跡(上郡町)
2017年11月03日 08:29
おはようございます。

山城攻め、続けていらっしゃいますね。
大聖寺山城、いい感じの遺構が残っていますね。

私のほうもボチボチ史跡めぐりをやってますが
篠山はイベントが多くて、思うに任せません。

今日は綾部のイベントに誘われて
久しぶりに山城に登ります。

宍粟城研、見学会企画とかの予定はありますか?