宍粟・播磨の城跡のアルバム一覧
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大聖寺山城跡(上郡町)
【閲覧数】12
2017年10月22日 15:53

 

播磨 大聖寺山城跡 上郡町船坂字西方寺

 

 

 ▲千種川支流安室川の北岸(左岸)にそびえる

 

 ▲大聖寺山城跡と周辺の城跡の配置図

 

 

大聖寺山城のこと

 

 大聖寺山城は上郡町船坂にそびえる大聖寺山(258m、比高220m)の山頂にあり、城域は東西約70m、南北約90m。主郭を含め3段の連郭式に配置され小規模のものであるが、畝状竪堀、堀切など戦国末期の城跡の様相を示している。

 南麓には安室川が東流し、その支流の梨ケ原川の上流に沿って中世山陽道が走り備前国境の船坂峠に至る。また安室川上流の北西の山伏峠を越えれば八塔寺近くを通り美作方面に通ずる交通の要衝にあった。

 城の記録としては、「赤松家播備作城記」に「赤松出羽守満貞 初築之居城也、応永年中(1394~1428)、釆地者赤穂十二個所、備前和気郡也」、「播磨鑑」には「城主は安室五郎義長が居住し、義長は赤松筑前守入道世貞の子であるとし、赤穂十三カ所備前和気郡を合わせて領し、永享(1431)3年5月2日没した」とある。赤松一族が安室荘内(12カ所)を治め、姓を安室と名のったようである。

 

 西方禅寺の梵鐘銘には「播州赤穂郡安室庄下獄宮山西方禅寺者、昔時大聖寺城主之菩提所也。即藤九郎森長之有石塔。城主三浦駒王丸、従義武名村義宗乞三代」とある。「赤穂郡誌」

 天正8年(1580)赤穂郡は宇喜多氏の所領となり、安室郷の知行を安室殿に命じている「播磨国知行割覚」。この城の南方の土井ノ内が発掘調査され約9m四方の平地城館跡が確認されている。これは城主安室氏の居館跡と考えられている。

 

参考:『兵庫県の中世城館』『近畿の城郭Ⅱ』

 

 

 

アクセス 

 

 

 

 

上郡町役場より西方面に進み、船坂地区の安室川に西方寺橋を目指す。橋を渡って右折れすると西方寺宝筐院塔の案内板があるので、そこを目ざす。

 

  

▲西方寺橋                ▲西方寺石造宝塔の案内板

  

▲西方寺石造宝塔            ▲宝篋印塔・五輪塔群

※説明板には 永仁6年(1298)鎌倉後期 造立とある。県指定文化財

 

         

宝塔から少しばかり戻ると、城山に登る道がある。上部にお堂がある。そこからは尾根筋上を進むと迷うことはない。

 

 

 

 ▲お堂の横を登る              ▲登る途中

 

 ▲途中見晴らしのよい場所に至る     ▲南方の見晴らし

 

 

30~40分ほどでいよいよ山頂付近に至る。

 

 

 ▲虎口                 ▲近くのアンテナの残骸

 

 虎口に至る。通路上に石積みが残っている。その先にアンテナの残骸がある。

ここから主郭の途中と南曲輪の西端付近に石積みが見られる。

 

 

 

主郭の背後には岩を砕いた堀切に圧倒される。

 

 

 

▲堀切の斜面            ▲堀切

         

  

▲水場か                                     ▲南展望 中央に中世山陽道があった                            

 

 

 東山麓に残る居館跡(寺跡か)

 

城山の東山麓の谷川の道を探ると谷川の左右には石積があり、左上に階段状に敷跡(寺跡か)があたり一面に残っている。

 

 

 

 

雑 感

 

 地名にも残る西方寺のお寺は上郡町山野里に移転している。城・山名として残る大聖寺と西方寺との関連は不明だという。

 この城の麓に延びる谷を歩いたときに、谷川右にも大きな居館跡があると思っていたが、後日周辺の地域を調べているとこの周辺から東の鉄塔のある山に「西方寺陣跡」、またひとつ谷向こうの山の東麓に「鳳張陣跡」があるという。

 天正7年(1579)宇喜多直家が毛利と決別したことによりこの周辺で羽柴秀吉軍が駐屯したという。

 

 

 大聖寺山城の南には別名城跡があるという。備前国境の見張りの城として機能していたのだろう。

 新たな諸城跡があることを知り、その探索に食指が動いた。

 

 

[関連]

●駒山城(1)http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=14720…1320990856

●駒山城(2)http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=22110…1506263117

 

●宍粟・播磨の城跡 http://shiso-sns.jp/community/?bbs_id=122

 

 

 

 


播磨 駒山城跡 2 (上郡町)
【閲覧数】99
2017年09月24日 23:25

 

 

播磨 駒山城跡 2  上郡町井上(いのかみ)・山野里

 

 

  赤穂郡上郡町の諸城の中で大聖寺山城と高田城が未踏なのが気にかかっていた。それらの探索を計画したとき、6年前駒山城の登城に井上の登山道を歩いていなかったのを思い出し、登山仲間と駒山城から順次大聖寺山城跡(上郡町船坂)、高田城跡(上郡町高田奥)と登城していった。

 

 

▲主郭の東出郭から北部眼下を望む    

 

 

▲逆に千種川から南に向かって城山を望む

 

 ▲生駒山周辺図

 

 

▲駒山城図 上郡町史より (加着色)

 

 

駒山城について

 

 赤松一族の安室(やすむろ)氏が駒山城と西の大聖寺山城の城主であったと伝えられている。西の大聖寺山城に対して、この駒山城は小聖寺山城ともいわれている。

 

 この駒山城が文献に出てくるのは戦国期末期の天正6年(1578)とその少し前のものがあり、その頃備中の宇喜多直家が佐用郡と赤穂郡を領しており、領内に駒山城と八幡山城(赤穂郡東有年)等があった。駒山城は宇喜多家臣長船越中守、八幡山城は宇喜多家臣明石飛騨守と伝わる。

 

 天正5年(1577)羽柴秀吉の播磨侵攻時に宇喜多直家は毛利輝元に従い、これらの城を拠点に上月城攻めや秀吉軍が中世山陽道から船坂峠越えの備前侵入を防ぐ動きをしている。

 

 参考:『上月合戦~織田と毛利の争奪戦~』、『近畿の城郭Ⅱ』

 

アクセス

 

生駒山の東麓の井上の登山口から登り始める。

 

 

 

 

▲井上登り口

 

 

 井上の登り口からほんのしばらく歩くと、右手民家の墓の背後に数段にわたり石積の屋敷跡らしきものを発見した。いきなりの感動というか心躍るものがあった。

登山道の左には古墳がある。

 

▼竹藪の中に数段の削平地と石積みが見られる

 

 

 

 

 

▲井上古墳の説明板           ▲井上古墳

 

井上登山路(いろは道)を登っていくと、登りきったところに井上・羽山コースの案内板がある。

 

 

▲登山道                  ▲あと450mの案内板

 

 

▲羽山のコースと出会う。         ▲コースの案内板                 

 

 

雑 感

 

 いきなり、屋敷跡と思える削平地を見つけたことが、今回の探索の成果!?であった。屋敷跡について書かれたものは見ていないので、本当に屋敷跡なのかは有識者の意見を聞いてみたいと思っている。屋敷跡がこの位置にあるのは主郭までが最短コースでベストだと思う。城への大手道は長い年月のうちに消え、近年に歩きやすい登山路が造られたのではなかろうか。

 城跡の周辺に古墳を目にすることが多々あるが、この場所は豊かな地であり豪族がいたのだろう。

 

 

 

 ※関連

● 播磨 駒山城(1)http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=14720…1320990856

● 宍粟・播磨の城跡 http://shiso-sns.jp/community/?bbs_id=122

 

▼マップは井上登山路の登り口

 


播磨 安積氏とその城跡
【閲覧数】163
2017年09月07日 12:48

 

播磨 安積氏とその城跡  宍粟市一宮町安積

 

 

播磨 安積氏の城跡・居館跡

 安積氏の城跡・居館跡館跡は因幡街道と但馬街道の交差する要衝であった宍粟市一宮町安積にある。その位置は引原川と揖保川が合流する揖保川西岸にあり、小さな森となっている場所(字下加門)に、かつては(下図面中央)堀や土塁で囲まれた構(居館跡)があった。

 その北西の愛宕山が瑞泉寺城跡である。その山裾には瑞泉寺廃寺跡があり、その場所は居館跡であったと考えられている。さらに北方には岩谷山(733m)が聳え、その手前の尾根筋上のピーク(555m)は古城山と言われ、尾根筋上に数段の曲輪跡と堀切跡が残る山城跡がある。

 

▲東安積村地番字別図 安積地区蔵

 

 

 ▲安積氏ゆかりの地 全景 

 

 

積保を支配した御家人安積氏

 安積氏は鎌倉時代、安積保に下司・公文職ならびに三方西郷(宍粟市波賀町)公文職、飾東郡姫道村(姫路城のあるところ)の田畠の知行を任ぜられた御家人であった。

 はじめ安積太郎兵衛大尉守氏(出羽守盛氏)は足利尊氏に属し、六波羅攻めの合戦に忠節を尽くしていたが、赤松則村(円心)が播磨国守護に任ぜられるとその被官となり代々安積保を支配していた。

 

 

赤松家に被官し最後まで仕える

 嘉吉元年(1441)主家赤松満祐が第六代将軍足利義教を謀殺するという嘉吉の乱※を起こした。その将軍暗殺に手を下した強者が安積監物行秀であった。その乱により赤松家及びその一族は幕府軍の追討により滅亡するも、応仁の乱後に旧領の播磨を奪回し守護家として復活したのに伴い安積氏も復活し、以後置塩城(姫路市夢前町)を本拠とする守護赤松家に最後まで仕えた。

 

 

宇野氏との対立

  戦国末期になると赤松総領家は衰退し、出雲の尼子氏が播磨に侵攻したがそれを食い止めることができなかった。その頃篠ノ丸・長水城主宇野氏は赤松惣領家から離反し、尼子氏とは争わず手を組み勢力の温存・拡大に努めていた。そのため赤松家被官の安積氏と宇野氏はこの頃から対立していたようである。

  弘治年間(1555~57)前後に宇野村頼の子政頼が赤松惣領家赤松晴政と戦ったことが最近に明らかにされた。天文16年(1547)(推定)の大井祝(はふり)陳情案(伊和神社文書)には「安積城退散の時、殿様御帰陣之時、御太刀一腰進上候」とある。これは社家の大井祝が宇野氏の奉行衆に願い出た文書の記述で、安積城退散の時に殿(宇野村頼)が太刀一腰を伊和神社に進上(奉納)している。安積城退散の年月は不明だが安積氏は宇野村頼に城を追われたことがわかる。

 天正8年(1580)羽柴秀吉の長水城攻めには、安積氏は田路氏とともに置塩城主赤松則房に従って秀吉軍に属し、天正10年(1582)安積将監は宍粟郡河東(一宮町)本知分100石を安堵された。

 

安積一族のその後

 安積家の古文書は地元宍粟市本拠地の安積家の外に三家に残されており、それらの古文書から一族のその後が判ってくる。

 その出所は林田藩領の揖東郡吉美町(姫路市大津区)と加西郡西剣坂村(加西市西剣坂町)そして盤城国(いわきのくに)田村郡三春町(福島県田村郡三春町)である。

  地元の安積家は播磨姫路藩の初代藩主池田輝政から富土野鉱山(一宮町)の生産の差配を命じられ、以後安積構村をはじめ郡内の七ケ村の代官となっている。

 県外の盤城・福島の「安積文書」安積小太郎氏所蔵から、播磨を離れた一人は後に陸奥・会津藩士になったことが判った。そのことは赤松家最後の当主赤松則房に仕えて阿波・徳島に移り、主家滅亡のあと浪人となり文書を携えて陸奥にわたり会津藩に被官したことを伺わせる。

戦国の世が終わり、安積氏一族は播磨と陸奥でそれぞれの道を歩んでいる。

 

 

 

 ▲ 池田輝政判物※

 

※ふとの山諸座共申付上者、運上之儀、毎月不可有違候、若背法度族於在之者、急度可成敗者也、

慶長六年 八月四日 照政(花押)  彦兵衛 又左衛門

 

 

参考:『兵庫県史 資料編中世三』、『播磨国宍粟郡広瀬宇野氏の史料と研究』(宍粟市歴史資料館、『播磨北部の生業と武士』(兵庫県立博物館)、『角川日本地名大辞典』

 

※山崎郷土会報(NO.129)より転載 写真カラー化

 

※参考 赤松及び宇野氏系図

 

[関連]

安積城跡 http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=11108…1290412384

瑞泉寺城跡 http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=20578…22&res

 

※嘉吉の乱の経過(1)http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=15374…bbs_id=122

嘉吉の乱の経過(2)http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=15381…bbs_id=122

宍粟・播磨の城跡 http://shiso-sns.jp/community/?bbs_id=122

 

 

▼マップは安積構跡


小代・城山城跡(美方郡香美町)
【閲覧数】100
2017年08月12日 20:19

 

おじろ    じょうやま

小代・城山城跡  美方郡香美町小代区 

 

  

 養父市大屋町の諸城の探索の後、羽柴秀長の家臣藤堂高虎を苦しめた小代一揆の本拠地小代・城山城をいつかは見てみたいと思っていた。しかし小代は但馬北西部の山岳の谷合にあるので、事前の下調べをすると城跡は「ふるさと歴史公園」として整備され、城山頂上付近まで車で行けると知り、雪解けの桜の咲く4月中旬、いくつもの山越え谷越えの道を進んでいった。

 

 

 

 ▲矢田川東岸より

 

小代・城山城跡のこと

 

 小代区の中心部の矢田川と久須部川の合流地点の山上の標高396.7m(比高120m)にある。

城の縄張りは主郭(東西約11m、南北22m)を中心に、四方に延びる尾根筋上に連郭式砦(曲輪)をもち、個々の曲輪跡は小さいものの、城域は東西510m、南北500mの規模をもつ。山麓の「字段の平」に城主居館があったと考えられている。

 城主は朝倉氏・八木氏・田公(たきみ)氏と伝わる。田公氏は天正五年(1577)羽柴秀吉の第一回但馬侵攻のとき、城山城を捨て因幡に逃走したという。

  小代一揆勢はこの城を本拠とし、藤堂高虎が攻め寄せたが撃退した(小代合戦)という伝承がある。

 

 

 

▲イメージ図 説明板より

 

▲小代・城山城図(一部着色加える) 説明板より

 

▲城山城周辺図 ( P:駐車場、赤丸:四方の砦)

 

 

▲城山方面からの小代を見る 

 

 

小代合戦

 

 小代合戦そのものを記録した一次史料はなく、地域伝承と藤堂家の年譜録と実録の記録が残るものの、その実態がはっきりしていない。

 

 地元伝承として、「七美郡誌稿」地元八木玄蕃著(明治時代)には、藤堂高虎率いる120騎が小代谷に攻め入り谷中の寺々を焼き払い古城山(城山城)を攻め寄せたが、太田垣、広井、小代大膳等は抗戦し、二方郡栃谷城の塩谷勢(50騎)の挟み撃ちになり、高虎勢は壊滅し、高虎はただ一騎で広井坂(一二峠)、天滝を越えて敗走した。

 余勢を駆って、一揆勢30人は大屋に攻め入り、横行に要害を構えて攻撃し、これに対し藤堂勢は、蔵垣・筏・栃尾館で抗戦し、勝利を収めた。

 その後、秀吉勢(堀尾吉晴ら)は七美郡に入り、「射添強盗」(いそうがんどう)を平定した。

 ※射添は村岡町内にある地名

 

 藤堂高虎家に残る記録として、「公室年譜録」には、天正5年秀長の但馬攻めのとき、小代大膳・上月何某ら92名が抵抗した。秀長は藤堂高虎に鉄砲数艇をもたせ、小代勢掃討を命じた。小代勢が大屋に侵攻し栃尾館を包囲したが、藤堂勢が応戦し、一揆の大将富安丹後・瓜原新左衛門等を打ち取り、小代勢は退散する。その後小代の砦を攻略した。しかし小代勢は分散しながらも勢力を保持し、秀吉来但の時、謀略により高須(村岡町)で召捕り極刑に処した

 

もう一つ、「高山公実録」(藤堂高虎一代記 幕末編纂)に、藤堂高虎と小代一揆勢の攻防は天正8年~9年(1580~81)の2年間戦った。一揆勢は小代だけではなく宇津賀(兎塚)(村岡町)からも押寄せた。小代勢は「上月某・小代大膳などと申す者一類九十二人」、「横行と申す山中に一揆共山籠いたし、要害を構、小屋掛け居り申す」、「天滝を越え横行山へ突出て、蔵垣において数度御合戦」等の記述あり。・秀吉の来但の記録:播磨から明延を越え大屋に入り、栃尾加賀守屋敷に立ち寄り、栃尾氏に判物(大屋の内川の支配権)を与えた。さらに秀吉は栃尾屋敷から小代に直行し一揆勢を捕縛し高須で獄門磔刑に処した。と公室年譜録よりやや詳しく記述されている。「大屋町史」より

 

 地元伝承と高虎家の記録とは時期や内容は一致しない点がある。地元伝承では攻め寄せた藤堂軍を撃退し、大屋まで追い込んでいるのに対し、藤堂家の記録では小代での敗退は触れられず、大屋に攻め入った小代勢を撃退させ、その後小代を攻略したという。

 いずれにせよ根強い小代勢の一掃は天正9年の因幡・鳥取城攻めの前の秀吉本隊の出動までまたなければならなかった。

 

 

 

 ▲但馬・因幡の主な城配置図

 

 

アクセス

 

 養父市大屋を抜け国道9号線から村岡区萩山の一二(ほい)峠を越えて小代に入った。

小代の谷筋に入り、ふれあい温泉おじろんを目指す。おじろんから久須部川沿いに進むと城への案内板あるので、左折し登って行くと歴史公園がすぐである

 

 

 

  

▲久須部川                       ▲整備された城山への道 

 

 

▲駐車場 トイレあり             ▲城図と詳しい説明 

 

 説明板のある部分は南砦にあたり、ここから北の尾根筋上に歩道が設けられ、主郭につづく。途中堀切があるが歩きやすいよう小さな橋が設けられている。

 

  

▲歩道が整備されている            ▲堀切に敷かれた小さな橋 

 

最後の階段を登ると、主郭にいたる。城山をイメージした木の櫓が造られている。

 

 

 

 

東西南北の各砦の案内板がありわかりやすい。主郭の西側には数段の曲輪があり、さらに進むと西砦に至る

 

  

▲北・西砦案内板               ▲主郭の西側の1番目の曲輪跡 上からの写真

  

▲主郭の西側の2番目の曲輪跡

 

東砦へは急勾配だが、階段が敷かれているので楽に降りられる。

 

 

▲東砦案内板                 ▲尾根筋に階段が敷かれている

 

▲東砦

                  

  

 

雑 感

 

  城跡は公園化され、歩道が整備され櫓が建てられここが中世・戦国期の城跡であることを多くの人に見てもらいたい、知ってもらいたいという地元の人たちの思いが伝わってくる。

 

 東西南北に砦を配した堅牢な城山城。最も守りの重点においたのは北砦だろう。その北砦から山麓に降りたかったが時間の都合上できなかった。次回行く機会があれば、北砦と山麓の居館跡地などを探索したいと思っている。

 

 秀吉にとって小代の一揆勢の存在は毛利との因幡鳥取合戦の前にうるさい存在だったようで、配下の者に指示を出し、最終的に自ら鎮圧に出陣している。因幡・鳥取城合戦には山陰の海路と但馬内陸部の因幡に通じる街道を押さえる必要があり、すなわち但馬から因幡若桜鬼ケ城にいたる氷ノ山越えの歩行・兵站ルート確保には小代勢の排除が最優先だったと考えられる。

 その小代・村岡を拠り所とした小代一揆勢は強盗(がんどう)と呼ばれていたが、捕縛した一類への獄門磔という厳しい処罰は秀吉の怒りに触れたものだったようだ。

 「高山公実録」に秀吉が但馬大屋の栃尾屋敷に出向くのに、播磨宍粟郡一宮町富土野経由で明延から大屋に入ったとあるのは興味深い。

 

 

[関連] 藤堂高虎と小代一揆

但馬 蔵垣城跡(養父市大屋町)          

http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=21872…1479435792

因幡 若桜鬼ケ城

http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=17555…1360336445

 

※宍粟・播磨の城跡一覧

http://shiso-sns.jp/community/?bbs_id=122 

 


歴史あふれるまち~山崎~ 冊子発行
【閲覧数】190
2017年07月25日 11:06

歴史あふれるまち~山崎~  

   街 並 探 訪 ガイドブック紹介

 

 しそうし

 宍粟市山崎町の町中を歩くと江戸時代(山崎城と城下町)の名残りを色濃くとどめた風景に出会います。

その歴史を紹介するガイドブックが作成されました。冊数に制限があるため、ネット(しそうSNS)

で紹介します。これを参考に歴史を訪ね歩いてみませんか。

 

 

▲表紙               ▲裏表紙

 

▼「完(宍)粟山崎構之絵図」 池田家文庫国絵図

 ▼まち歩きMAP

 

▼山崎城跡を訪ねる  紙屋門

 

表門跡 →  大手前  →  内堀跡  →  中堀跡  → 外堀跡

 

▼中門跡  →  桜の馬場跡  →  搦手門跡    →  清水口見付門跡

 

 

町筋の遺構  →  土橋門 →  下屋敷跡  →   埋門跡

 

古社寺を訪ねる  青蓮寺

 

▼大雲寺   →   興国寺

 

妙勝寺    →   光泉寺

 

山崎八幡神社   モッコク

 

大歳神社(千年藤)   →   闇斎神社

 

▼城下町を訪ねる    山陽盃酒造  →    老松酒造

 

本家門前屋  →     梶間住宅 

 

船着場を訪ねる 出石の高瀬舟 

 

▼官兵衛ゆかりの地を訪ねる  篠ノ丸城跡

 

▼山崎の歴史を知る  山崎歴史郷土館  山崎歴史民俗資料館

 

山崎藩主の変遷  池田家・松井家・池田家・本多家

 

 

最上山公園もみじ山              やまさきまち歩きガイドの会

 

 

◆ お問い合わせ・ガイド申込先

やまさきまち歩きガイドの会事務局

(公益財団法人しそう森林王国観光協会)

宍粟市山崎町上比地374 0790-64-0923

 

▼マップ 山崎城 紙屋門


峯相山鶏足寺跡(姫路市石倉)
【閲覧数】337
2017年04月02日 00:08

 

みねあいさん けいそくじ 

峯相山 鶏足寺跡  姫路市石倉

 

~秀吉軍に焼き払われたという鶏足寺~ 

 

 

  今回は山城ではなく廃寺跡の紹介です。

 

  姫路市石倉に峯相山鶏足寺跡という大寺院の跡があることを知り、前々から興味を持っていた。うっそうとした廃寺跡で、詳しい人の案内がないと行くのが難しいと勝手に思い込んでいたが、先日目にした「はりま歴史の山ハイキング」という本に峯相山への登山コース上に鶏足寺跡が出ており、場所がほぼ特定できたので早速行くことにした。

 

 

 

 ▲峯相山鶏足寺跡全景

 

 

▲鶏足寺跡上部

 

  

 ▲峯相山鶏足寺の想像復元図(木内内則作)   ▲峯相山鶏足寺の概念図(木内内則作)  

 

 

 

『峯相記』

 書かれた時期は貞和4年(1348)南北朝期の頃、播磨国の峯相山鶏足寺(姫路市石倉)に参詣した著者が、鶏足寺の老僧から聞いた話をまとめた形式による。鶏足寺を中心に播磨の寺社の由緒・縁起、世情が記されており、当時を窺い知る貴重な手掛かりとなっている。

 

 鶏足寺は神護景雲年間(859~870)には、多くの伽藍(金堂・講堂・法華堂・五重塔・三重塔・宝蔵・僧坊(300余)等々、太市に別院(観音寺・根本寺)をもつ往時の隆盛ぶりが記されている。

 しかし、時代が流れ峯相記が書かれた貞和4年頃には衰退し、塔2塔、神社1棟、僧坊6,7棟が残るのみとする。天正6年(1578)8月10日に秀吉軍に鶏足寺は焼き払われた。

 

▲峯相記 斑鳩寺蔵

 

 

アクセス

 

 

 ▲峯相山鶏足寺跡マップ

 

 

 

 国道29号線の石倉の信号を北方向に曲がり石倉橋を渡ると、南に突き出した尾根先に赤い鳥居の稲荷大明神が目に入る。ここより北上すると、すぐに峯相山登山記帳所がある。

 

  

▲稲荷大明神                 ▲峯相山登山記帳所

 

 

 すぐに峯相山大池、その先に山口(大黒岩コース)の案内板を左に見る。

あとは道の終点まで進むと開山堂だ。

 

 

▲左は登山道へ(大黒岩コースとある)     ▲峯相上池(うわいけ)

 

 

▲この先もう少し               ▲開山堂 

 

 

▲開山堂の近くの五輪塔群  無縁佛とあるが、焼き討ちの時の犠牲者のものか?

 

 

開山堂で駐車し、ここから坂道を登って行くと、お堂の右上にフェンスがある。

 

   

▲次のお堂に延びる道             ▲お堂の上のフェンス

 

フェンスを開けて進む。新しい道が敷かれ、廃寺跡まで10分程度で行ける。

足元には岩がごろごろ散乱して、杉林の最上部の林に長い削平地がある。

 

 

 

▲上部が開けている              ▲右手に広い削平地

 

 

 上部はすっきりと雑木が伐採され、むき出しとなった削平地は段丘状にひろがり、地表に寺院の礎石や崩れ落ちた石垣が散乱しているのを目の当たりにする。遺跡の広さは約4haあるという。

 

 

    

 

  

▲広い削平地が段丘状に延びている       

 

 

▲階段の上に塔(?)の礎石  ▲鶏足寺の礎石跡

 

 

最上部から尾根筋を右に登っていくと、峯相山の頂上(239.7km)に至る。途中に五輪塔がある。

 

 

▲五輪塔                  ▲登山案内(上伊勢2.2km、書写山5.0km)

 

 

▲峯相山頂上               ▲さらに東に尾根筋が続く

 

 

 

雑 感

 

 山城巡りには山麓や山腹によく廃寺跡や古墳等を目にすることがある。中世や戦国期には寺跡跡を城に転用することも珍しくはない。西播磨では光明山城(相生市)や広峰神社の北にある弥高山城(姫路市)等がそれである。城跡と寺跡は一見見分けがつかない。

 

 

 

 

 

 書写山の西の山岳にあった峯相山鶏足寺は三木城の別所方についたため、秀吉によって全山焼き討ちにあったという。この鶏足寺の仏教勢力(僧侶や信徒等の宗徒)は秀吉にとって無視できないものだったのだろう。

 

 峯相記には峯相山鶏足寺が東方にある書写山円教寺よりも歴史は古く、空也や書写円教寺の開山・性空も来山したとある。峯相記がもし残されていなかったとすれば由緒の知れない寺院跡などは誰も顧みる者もなく、歴史の片隅に追いやられてしまっていたかも知れない。

 

 この遺跡の遺物の一部の採取はあるが、本格的調査はされていない。中世播磨の一大山岳寺院の成立の解明に早期の発掘調査と未来への遺跡保存が望まれる。

 

 

石倉峯相の里の風景

 

 

 ▲みねあい いろり庵

 

 

◆峯相山の東尾根から見た異国の白鳥城

 

 

▲白鳥城(ズーム)   ▲モデルになったノイシュヴァンシュタイン城(独)ネットより

 

 まさか峯相山から白鳥城を見るとは。中世の山岳寺院跡探索で眼下に異国の城が見えたのはなんとも違和感があった。ついでながら、元はどこの城かと調べてみると、すぐにわかった。ドイツのノイシュヴァンシュタイン城がモデルになっている。二つの写真を見比べると同じ角度でそっくりなのには驚いた。

 

 

参考:『峯相記の考古学~西播磨を中心にして~』

 

・宍粟・播磨の城跡 http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=10716…2002 


播磨・但馬 田路氏の城をめぐる
【閲覧数】546
2017年03月05日 10:43

 

田路氏の城跡をめぐる ~郡境に足跡を残した武将~

 

 

 田路(とうじ)氏という地元以外では難読の苗字は但馬国朝来郡田路谷(朝来市)が発祥の地とされる。田路谷は円山川支流の田路川流域にあり、古くは田道荘(たじのしょう)(荘園)があった地で“たじ”と呼ばれていた。

 

 田路氏は関東の千葉氏出自の御家人で、朝来郡田路谷から宍粟郡三方谷へ進出した国人と言われている。但馬朝来郡と播磨宍粟郡の境目の領主で、宍粟郡北部の三方東庄(一宮町)に本城をおき、福知の高取山城と草木の草置城を支城として、但馬朝来郡田路谷につづく千町(宍粟郡一宮町)越えのルートを押さえていたと考えられている。

 

 

 

 

 

 田路家文書には仕えた主君・武将からの感状(軍忠状)が残されている。列記すると赤松惣領家赤松政則(置塩城主)、赤松政秀(龍野城主)、尼子晴久(出雲・月山富田城主)、山名氏家臣太田垣朝延(竹田城主)、羽柴秀吉の名のある武将からの軍功の文書である。田路氏は赤松惣領家に属していたが、戦国時代には対立する主君でさえ状況に応じて柔軟な対応のできる一族集団であったと思われる。田路氏は天正8年(1580)羽柴秀吉軍の宇野攻めに秀吉方に組みし、赤松則房の指揮下のもと長水城攻めに加わっている。一方、朝来の田路城にいた田路一族は天正年間に秀吉軍にことごとく一掃されたようである。

 

 

田路氏の城跡

 

三方山城跡(一宮町三方町)

 

 

 御形神社の西方に見える山の南尾根先端部(標高382・5メートル)にある。主郭(約26×9メートル)と出郭、主郭背後に大堀切をもつ小規模な山城跡である。田路氏が本拠とした城で、東の山裾に屋敷跡があったと考えられる。

 

 

高取城跡(一宮町福知)

 

 

 福知渓谷の入り口の字高取の北にそびえる高取山(標高608メートル)の頂上部にある。頂上部は狭く、わずかな土塁と削平地が認められるが遺構は明確ではない。南と東の尾根上に堀切がある。登り口の南山裾には構居跡?とおぼしき石垣群がある。

 

 

草置城跡(一宮町草木)

 

 

 城跡近くまで百千家満(おちやま)から山道(車道)が敷かれ、高峰の北尾根上の峠部分に模擬櫓(もぎやぐら)が建てられている。櫓の背後の山の頂上(標高601・6メートル)が城跡が残る。主郭(約8×6メートル)とそれを取り巻く曲輪跡、東尾根筋に堀切跡がある。登り口の高台に宝篋印塔(ほうきょういんとう)が残る。

 

 

田路城跡(朝来市田路)

 

 

 

 田路城跡は、田路川上流の田路谷を見下ろす小高い山腹にあり、城の背後の先に千町越えの峠の稜線が見える。山裾周辺には田路氏の菩提寺である祥雲寺(しょううんじ)跡、守護神の毘沙門堂(びしゃもんどう)がある。現在の祥雲寺は城主の邸跡に再建されたという。十数キロの深い田路谷には多数の宝篋印塔・五輪塔が残されており、この谷で激しい戦闘があったことを物語っている。

 

 

戦国武将の足跡が城跡と苗字で今に繋がる

 

 かつては朝来郡奥田路と宍粟郡千町とは婚姻の繋がりがある隣村で山越えでの村人の行き来があったという。田路姓の分布については、宍粟市と朝来市以外では、夢前町新庄に数多く見られ、神崎郡市川町美佐にあることがわかった。苗字発祥の地田路谷に今は田路という姓はなく、トウジとも読める藤次(ふじつぐ)という姓が多くあり、そこに秘められた関係があったのかも知れない。

 

 確かなことは、但馬と播磨に生きた戦国武将田路氏の足跡が郡境周辺の城跡に残され、一族の苗字が面々と引き継がれ今に繋がっていることである。

 

 

参考:「兵庫県史資料編第三巻」、「朝来町史」、「播磨国宍粟郡広瀬宇野氏の史料と研究」、「角川地名大辞典」

 

※ 山崎郷土会報 No.128 平成29.2.25発行より転載

 

関連

・高取城 http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=20657…bbs_id=122

・草置城 http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=10716…1287552002

・宍粟・播磨の城跡 http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=10716…1287552002

 

▼マップ座標は 朝来市の田路城跡


但馬 蔵垣城跡(養父市大屋町)
【閲覧数】510
2016年11月18日 11:23

 

たじま  くらがきじょう

但馬 蔵垣城跡 養父市大屋町蔵垣字スクモ谷・左右田

 

▲蔵垣城跡全景

 

▲鳥瞰 (by google)   城山の北東部から

 

 

  養父市大屋町蔵垣には、天滝が見えるお寺ということで宝幢寺(ほうどうじ)を訪ねたのが5年前。そのとき蔵垣は養蚕の里ということを知った。

 今回は一連の大屋町の城めぐりで蔵垣城跡がこのお寺の前方に見える山にあることがわかった。集落の蔵垣会館近くで見上げると、かなり高い山に見えたが、思ったほど時間はかからなかった。

 

 

蔵垣城跡

 

  蔵垣集落の背後の北から南へ尾根筋がのびるその中腹にあって標高390m、比高200m)の地点にある。城域は東西約50m、南北約110mの小規模な城跡である。

 主郭は東西16m、南北25mあり、土塁(幅4.5m、高さ2.5~3m)が築かれている。主郭に至るまでに二段の曲輪がある。それを二つの大堀切(前方:幅11・3m、深さ6m、後方:幅11.3m、深さ10m)と竪堀が守り、小規模ではあるが堅固な戦国期の様相を呈している。

 城主及び城史は不明である。

 

 藤堂家の伝記によれば、天正8年~9年(1580~81)にかけて小代一揆勢が天滝を越えて蔵垣野に来襲し数度かの合戦があり、藤堂高虎と栃尾源左衛門、居相孫作らが応戦し、小代勢の小代大膳、富安丹後、瓜原新左衛門を討ち果たし、その後小代の砦(城山城か)を攻略したという。『公室年譜録』(安永3年1774)、『高山公実録』(嘉永3年~安政元年・1850~1854)

 

 

 

 

 藤堂高虎の小代勢との合戦

 

 小代勢力を「天正9年(1581)此春 但州七美郡小路比(おじろ)村に砦を構えて、小代大膳・上月某党を集め、九十二人近郷に徘徊して人民を掠(かす)め侵す。秀長卿公(藤堂高虎)に命じて鉄砲数挺を附属し、是を制し討たしむ。・・・」

 小代一揆勢は大屋への進撃に大屋の横行や蔵垣が小代側についたため、藤堂高虎は苦戦を強いられたが栃尾・居相氏等に助けられ撃退することができ、小代勢側の富安氏、瓜原氏を討ち果たし、その後小代の砦(城山城か)を攻略したと記す。『公室年譜録』、『高山公実録』

 

  この小代一揆に関する確かな史料がなく不明であるが、藤堂高虎が羽柴秀長の指示で但馬西部の反織田勢の一掃を図るも、但馬在任中は最後まで小代勢には手を焼いたようで、決着は天正9年(1581)鳥取城攻めの直前、秀吉の指揮による制圧まで待たなければならなかった。

 

参考:大屋町史

 

 

▲県道脇の古戦場蔵垣野(表示碑)     ▲蔵垣かんどう塚(小代大膳の供養塔)

 

 

 

 

アクセス

 

蔵垣の「かいこの里」をめざすとよい。蔵垣会館の南、宝幢寺の東方にある。

 

 

    

 

 

 

 

 

▲上垣守国養蚕記念館               ▲登り口の先にフェンスが見える

 

 

上垣守国養蚕記念館の上に広い駐車場があり、山裾に登り口がある。フェンスがあるので、それを開けて、右に進むとすぐに左折れの道になったところに至る。左に入らないで、トタンの囲いの場所から取り付く。

ここから尾根筋に沿って登る。あとは地籍調査の表示が城跡地まで誘導してくれるのでまず迷うことはない。

 

 

▲フェンス                   ▲カーブの先が登り口 

 

 

▲トタンのある場所に取り付く         ▲尾根筋

 

 

30分ほど尾根筋を歩くといきなり大きな堀切が現れた。

幅約11m、深さ約10mと山城では大きなものだ。

 

▲大堀切

 

 

▲堀切の底から                  ▲頂上部を望む

 

数段の曲輪跡をのぼっていくと頂上に至る。主郭の南の縁は土塁が高く積まれているので主郭中心はすり鉢のように見える。土塁の先は大堀切で深くえぐられている。

 ここからさらに尾根筋が続くが、城跡が尾根の中腹にあることがわかる。

 

 

▲主郭部                    ▲主郭背後の大堀切 

 

 

▲反対側から主郭を望む                 ▲尾根筋はまだまだ続く

 

 

 

雑 感

 

  小代一揆勢が一度ならず何回か押し寄せて蔵垣野で合戦があったといいうが、そのことが終始気になっていた。

 

  藤堂家の伝記に藤堂高虎と小代一揆勢が蔵垣の地で幾びかの合戦があったことが記されている。高虎は羽柴秀長に小代一揆掃討を命じられるが、小代に通じる大屋谷の横行・筏・蔵垣が小代に加担し、それを阻んだこと。また、一揆勢が加保の栃尾加賀祐善の館を包囲し藤堂、栃尾と争ったとある。その襲撃に瓜原新左衛門の名が出てくる。

 大屋町大杉の小字に瓜原があり、瓜原氏は大杉の武将と考えられている。大屋町史には、瓜原氏が大杉城に居城していたのではないかと推測している。瓜原氏は大屋加保の栃尾氏と藤堂高虎との結びつきをよく思わなかった人物の一人だったのか、小代勢と手を組み、西谷を基盤に大屋川を挟む堅城大杉城と蔵垣城を盾に藤堂・栃尾の勢力に立ち向かう。小代から幾つも峠を越え、深い谷を抜け大屋の地に侵入した小代一揆勢の狙いは藤堂を倒すことだったのだろう。その力を与えてくれたのは大屋の武将瓜原氏だったと考えれば、小代一揆勢は反織田勢の躍起で大屋蔵垣の戦いを可能にしたのではないかと・・

 

城配置図

 

 

 

 [関連]

・大杉城 http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=21500…1465275435

・天滝と宝幢寺http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=13964…1314842686 

※宍粟・播磨の城跡 http://shiso-sns.jp/community/?bbs_id=122

 

 


但馬 男坂城跡(養父市大屋町)
【閲覧数】370
2016年11月06日 11:21

 たじま   おさかじょう

但馬 男坂城跡     養父市大屋町宮垣天神山

 

▲男坂城跡全景  南から

 

 

 ▲鳥瞰   (by google)

 

  男坂城跡は、大屋川左岸(北岸)に張り出した尾根の先端部(標高130m、比高約30m)にある。男坂神社の本殿のある最上部に主郭(東西30m×南北28m)があり東に2段の帯曲輪と曲輪(41m×23m)跡が残る。主郭背後には尾根筋の侵入を防ぐための堀切があったが、近年の撹乱により破壊されている。城主は不明だが、対岸の三方城の三方氏の一族と思われる。

 尾坂城は三方城の出城・支城として三方城と川を挟んで、東の大屋口と北の琴弾峠からの侵入路を押さえていたと考えられる。 

 主郭には男坂神社が祀られている。住所地名が字天神山とあり、北裾を流れる谷川は天神川、大屋川に掛けられた橋は天満橋と天神さんゆかりの地名・名称が残されている。これは、江戸時代に出石藩封内明細帳に天神社とあり、もともと天神社として祀られていたものが明治3年(1870)に男坂神社に改称されたからである。

 

 参考:大屋町史

 

 

アクセス

 

 大屋川に沿いの県道6号(養父宍粟線)で宮垣集落に入れば北岸に尾坂神社があるのですぐわかる。北からの場合は琴引トンネルを抜け県道との交差点の左手すぐである。

 

 

 

  

▲神社(城跡)入り口             ▲真っ直ぐな石段

                                        

 

神社の石段が真っ直ぐ敷かれている。曲輪跡を貫いているので、縄張り図を見ながら進むと、両脇に曲輪跡が容易に確認できる。

 

 

 

▲石段途中 右手に延びる曲輪跡                  ▲本殿下の切岸

 

 

 

▲男坂神社

 

▲神社の背後 階段を降りた所に堀切があった▲埋められた堀切の先には竪堀跡が残る 

 

 

 

 ▲削り取られた尾根筋背後                                     ▲神社の背後が宅地化されている

 

▲背後からみた景色 南西部

 

 

 

 雑 感

 

 

▲昭和39年(1964)の航空写真(国土交通省)

 

 

 男坂城跡の背後は住宅地が建ち並び道路が北に延びているが、城が機能していた戦国期にはなだらかな丘陵の尾根先端部の高台で、北の琴弾峠への道はこの城の前を通らなければならなかった。そのことは城の正面の東と北につながる琴弾峠の道を見張る最適な場所で、三方城を守るための好位置にあることがよくわかる。

 

 棚田の発達したのどかな但馬の深い谷合も昭和から平成にかけて県道が整備拡張され、この宮垣に琴弾トンネルが開通し、峠越えの道が役目を終えた。このトンネルによって大屋から但馬中心部へのアクセスが便利になり地域の生活圏が大きく広がった。昔は一度大雪が降るとバスが長く運休したことがあったが、道が整備され雪も少なくなったこともあって、今はそのようなことはほとんどないという。

 

 

[関連]

・三方城跡 http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=21793…1474524445

 

※宍粟・播磨の城跡 http://shiso-sns.jp/community/?bbs_id=122


三森城跡(姫路市安富町)
【閲覧数】484
2016年10月13日 10:32

 みつもりじょう

三森城跡  山麓に居館跡  

宍粟郡安富町三森(現姫路市安富町)

 

▲三森城跡 全景

 

 

▲大手道(登城口)

▲三森城跡位置図  (昭和23年航空写真 国土交通省)

 

 

交通の要衝に位置する中世初期の山城

 

 三森城跡は宍粟郡の南東部(姫路市安富町)にあって東へは加西北条方面の古道、南へは安志川(林田川)沿いに姫路・竜野に至る街道があり、古くからの交通の要衝地点にあった。三森字城山の標高250m・比高130mの山頂部に小さな曲輪跡と数段の削平跡が見られるが、自然地形に近い。戦国末期に見られる竪堀や堀切の跡がないため、中世初期の小規模な山城であるといえる。西側の安志川(林田川)に接した安志姫神社の宮山稜線部からの眺望はよく、安志坂上部や安志川流域が一望でき、城山と連携した見張り台によって、南麓の街道筋を押さえ、かつ安志庄内の動きを監視していたものと見られる。さらに三森城は狼煙(のろし)により長水城と連絡していたのではないか言われている。頂上から尾根筋に少しばかり下ると狭い鞍部になった所に至る。そこに狼煙台があったという。今はその場所は送電線の鉄塔工事のため改変されている。三森から三坂(下河)そして三谷越しの切り通し北尾根に狼煙台が想定されているが、本当に狼煙台があったのかどうか、有事の際に狼煙が有効に使われたのか、その確証はない。

 

  

▲頂上曲輪跡                 ▲鉄塔のある鞍部 狼煙台があったという

 

▲鉄塔付近からの西の展望

 

 

城主は三森近江守(伝承)

 

 三森城の城主については、「赤松家播備作城記」には記載がなく、ただ一つ宝暦5年(1755)の「播磨古跡考」佐用の岡田光僴)に「三森古城 安志庄三森村に有り。三森近江守と云し人住之と云」とあるのが初見である。しかし三森近江守の名は赤松家臣団に見当たらない。この「播磨古跡考」が書かれたのは長水城が落城して175年後のことである。三森氏の存在を裏付ける手掛かりはない。

 

大手道に長い石垣を残す居館跡

 

 三森城跡について、特筆すべきは城山の西南の高台で大手道あたる場所(字坂口)に武士の居館跡の石垣が残っていることである。竹藪の中には野面積の石垣に区分けされた幅5m~10m、長さ20m~40mの屋敷跡が五段に及ぶ。

中世の時代は、山城の中腹や山麓に「根小屋」と呼ばれた居館があり、いざ合戦ともなれば相手の軍勢によって少数であれば野戦を選び、多数の場合は山城に立て籠もり応戦していたようである。

 

 

 

▲竹林に東西にかけて段階状に曲輪跡が残る    ▲石垣

 

 

赤松家の弱体化と宇野氏の離反

 

 天文7年(1538)に出雲の尼子氏が播磨に侵攻し、備前・美作・播磨の守護赤松晴政(置塩城主)はその侵攻を食い止めることもできず敗走し、播磨は大混乱に陥った。尼子氏が本国で毛利氏との闘いに敗れ播磨を撤退すると、今度は赤松重臣の浦上氏が台頭し、赤松を牛耳る動きに出た。こうして16世紀半ば以降赤松家の勢力は一武将ほどに低下していった。

 

 天正5年(1575)織田信長の命により羽柴秀吉の中国制圧で、置塩城(夢前町置塩)の赤松惣領家最後の当主赤松則房は、秀吉の軍門に下り、播磨攻めに加わった。天正8年4月秀吉の宇野攻めの前哨戦として広瀬(山崎町)に攻め入っている。戦国期末期宇野氏は「織田か毛利か」の決断をする以前に、主家赤松氏から離反し敵対状態であったため、夢前・林田につながる街道筋は常時緊迫した状況であったと考えられる。

 

 そこで置塩から安志には三坂ルートがあることに注目している。三坂は宍粟郡と飾西郡の郡境に近く、その峠への道に「木戸口」という小字地名が残されている。それはおそらく夢前町護持につながる街道の見張りの門があったのだろう。ゆるい峠を越え下って行くと奥護持の西谷口に至る。そこには赤松置塩城防衛の護持構居跡がある。則房が宇野征伐にこの護持峠越えの最短ルートを利用したことは十分考えられる。

 

 

 

 ▲置塩・三坂推定ルート

 

 

三森の居館跡は中世遺構として貴重なもの

 

 三森城は宇野氏と主君赤松氏の臣下の関係が良好であるときは不用なものであったが、戦国後期ににわかに宇野氏は配下の者をして三森と三坂を守らしていたと推測される。

 宍粟郡を支配していた宇野氏の本城長水城や篠ノ丸城の山麓には城主の居館跡や菩提寺、政治を行う政庁があったと思われるが、近世の町場化と400年以上の長い年月にほとんどが跡形もなく消失してしまった。その中にあって三森に残された居館跡は宇野氏ゆかりの中世遺構として貴重なものと理解している。

 

参考:「安富町史」他

 

※山崎郷土会報 NO.127 28.8.28より 写真追加・カラー化

 

関連

・聖山城跡と秀吉軍の行軍ルートhttp://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=20665…1409669766

・三森の地名と安志姫神社

地名・http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=8136&…bbs_id=102

神社:http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=6811&…bbs_id=102

※宍粟・播磨周辺の城跡(一覧)

 http://shiso-sns.jp/community/?bbs_id=122


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