宍粟・播磨の城跡の「播磨 安積氏とその城跡」
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播磨 安積氏とその城跡
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2017年09月07日 12:48

 

播磨 安積氏とその城跡  宍粟市一宮町安積

 

 

播磨 安積氏の城跡・居館跡

 安積氏の城跡・居館跡館跡は因幡街道と但馬街道の交差する要衝であった宍粟市一宮町安積にある。その位置は引原川と揖保川が合流する揖保川西岸にあり、小さな森となっている場所(字下加門)に、かつては(下図面中央)堀や土塁で囲まれた構(居館跡)があった。

 その北西の愛宕山が瑞泉寺城跡である。その山裾には瑞泉寺廃寺跡があり、その場所は居館跡であったと考えられている。さらに北方には岩谷山(733m)が聳え、その手前の尾根筋上のピーク(555m)は古城山と言われ、尾根筋上に数段の曲輪跡と堀切跡が残る山城跡がある。

 

▲東安積村地番字別図 安積地区蔵

 

 

 ▲安積氏ゆかりの地 全景 

 

 

積保を支配した御家人安積氏

 安積氏は鎌倉時代、安積保に下司・公文職ならびに三方西郷(宍粟市波賀町)公文職、飾東郡姫道村(姫路城のあるところ)の田畠の知行を任ぜられた御家人であった。

 はじめ安積太郎兵衛大尉守氏(出羽守盛氏)は足利尊氏に属し、六波羅攻めの合戦に忠節を尽くしていたが、赤松則村(円心)が播磨国守護に任ぜられるとその被官となり代々安積保を支配していた。

 

 

赤松家に被官し最後まで仕える

 嘉吉元年(1441)主家赤松満祐が第六代将軍足利義教を謀殺するという嘉吉の乱※を起こした。その将軍暗殺に手を下した強者が安積監物行秀であった。その乱により赤松家及びその一族は幕府軍の追討により滅亡するも、応仁の乱後に旧領の播磨を奪回し守護家として復活したのに伴い安積氏も復活し、以後置塩城(姫路市夢前町)を本拠とする守護赤松家に最後まで仕えた。

 

 

宇野氏との対立

  戦国末期になると赤松総領家は衰退し、出雲の尼子氏が播磨に侵攻したがそれを食い止めることができなかった。その頃篠ノ丸・長水城主宇野氏は赤松惣領家から離反し、尼子氏とは争わず手を組み勢力の温存・拡大に努めていた。そのため赤松家被官の安積氏と宇野氏はこの頃から対立していたようである。

  弘治年間(1555~57)前後に宇野村頼の子政頼が赤松惣領家赤松晴政と戦ったことが最近に明らかにされた。天文16年(1547)(推定)の大井祝(はふり)陳情案(伊和神社文書)には「安積城退散の時、殿様御帰陣之時、御太刀一腰進上候」とある。これは社家の大井祝が宇野氏の奉行衆に願い出た文書の記述で、安積城退散の時に殿(宇野村頼)が太刀一腰を伊和神社に進上(奉納)している。安積城退散の年月は不明だが安積氏は宇野村頼に城を追われたことがわかる。

 天正8年(1580)羽柴秀吉の長水城攻めには、安積氏は田路氏とともに置塩城主赤松則房に従って秀吉軍に属し、天正10年(1582)安積将監は宍粟郡河東(一宮町)本知分100石を安堵された。

 

安積一族のその後

 安積家の古文書は地元宍粟市本拠地の安積家の外に三家に残されており、それらの古文書から一族のその後が判ってくる。

 その出所は林田藩領の揖東郡吉美町(姫路市大津区)と加西郡西剣坂村(加西市西剣坂町)そして盤城国(いわきのくに)田村郡三春町(福島県田村郡三春町)である。

  地元の安積家は播磨姫路藩の初代藩主池田輝政から富土野鉱山(一宮町)の生産の差配を命じられ、以後安積構村をはじめ郡内の七ケ村の代官となっている。

 県外の盤城・福島の「安積文書」安積小太郎氏所蔵から、播磨を離れた一人は後に陸奥・会津藩士になったことが判った。そのことは赤松家最後の当主赤松則房に仕えて阿波・徳島に移り、主家滅亡のあと浪人となり文書を携えて陸奥にわたり会津藩に被官したことを伺わせる。

戦国の世が終わり、安積氏一族は播磨と陸奥でそれぞれの道を歩んでいる。

 

 

 

 ▲ 池田輝政判物※

 

※ふとの山諸座共申付上者、運上之儀、毎月不可有違候、若背法度族於在之者、急度可成敗者也、

慶長六年 八月四日 照政(花押)  彦兵衛 又左衛門

 

 

参考:『兵庫県史 資料編中世三』、『播磨国宍粟郡広瀬宇野氏の史料と研究』(宍粟市歴史資料館、『播磨北部の生業と武士』(兵庫県立博物館)、『角川日本地名大辞典』

 

※山崎郷土会報(NO.129)より転載 写真カラー化

 

※参考 赤松及び宇野氏系図

 

[関連]

安積城跡 http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=11108…1290412384

瑞泉寺城跡 http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=20578…22&res

 

※嘉吉の乱の経過(1)http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=15374…bbs_id=122

嘉吉の乱の経過(2)http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=15381…bbs_id=122

宍粟・播磨の城跡 http://shiso-sns.jp/community/?bbs_id=122

 

 

▼マップは安積構跡


書き込み数は2件です。
[ 日付順 ] [ 投稿者順 ]
Re[2]: 播磨 安積氏とその城跡
【返信元】 Re: 播磨 安積氏とその城跡
2017年09月09日 09:45
今回の取材で安積氏は、鎌倉期から現在までの気の遠くなるような長い期間を生き抜いて、すごいと感じています。
 長い歴史の中で、特に室町・南北朝期や戦国時代は、日本の文化や歴史を形造った時代であったのに、もう一つわかりづらいのですが、その時代を知る史料が残されています。
 歴史教育は郷土の歴史からと常々思っていますが、郷土にはいいものが残っています。

 歴史遺構の保存については、以前伊水小学校背後の宇野構跡が取り壊され、非常に残念に思いました。

 行政もさることながら、古きよきものを残そうとする住民意識は教育や地域の中で時間をかけ育まれるものなので、なんともはがゆいものです。
Re: 播磨 安積氏とその城跡
【返信元】 播磨 安積氏とその城跡
2017年09月09日 05:05
記事、拝見しました。

安積氏の歴史、おもしろいですね。
中世から近世、そして現代へ
家の歴史を紡ぐということの途方もない時間に
思い至らせたことです。

江戸時代のものであろう古地図も初めてみました。
安積氏の館跡が残っていればと思うのですが
近代から現代に至る時代の荒波の前には
あっけなく潰え去るしかなかったのでしょう。

せめて今にのこる歴史遺構をこうせい後世に伝えたいと願うのですが
いまの文化財行政の貧しさに思いをいたすと
それも、心許ないことに思われ、暗澹とすることです。