宍粟・播磨の城跡の「但馬 蔵垣城跡(養父市大屋町)」
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但馬 蔵垣城跡(養父市大屋町)
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2016年11月18日 11:23

 

たじま  くらがきじょう

但馬 蔵垣城跡 養父市大屋町蔵垣字スクモ谷・左右田

 

▲蔵垣城跡全景

 

▲鳥瞰 (by google)   城山の北東部から

 

 

  養父市大屋町蔵垣には、天滝が見えるお寺ということで宝幢寺(ほうどうじ)を訪ねたのが5年前。そのとき蔵垣は養蚕の里ということを知った。

 今回は一連の大屋町の城めぐりで蔵垣城跡がこのお寺の前方に見える山にあることがわかった。集落の蔵垣会館近くで見上げると、かなり高い山に見えたが、思ったほど時間はかからなかった。

 

 

蔵垣城跡

 

  蔵垣集落の背後の北から南へ尾根筋がのびるその中腹にあって標高390m、比高200m)の地点にある。城域は東西約50m、南北約110mの小規模な城跡である。

 主郭は東西16m、南北25mあり、土塁(幅4.5m、高さ2.5~3m)が築かれている。主郭に至るまでに二段の曲輪がある。それを二つの大堀切(前方:幅11・3m、深さ6m、後方:幅11.3m、深さ10m)と竪堀が守り、小規模ではあるが堅固な戦国期の様相を呈している。

 城主及び城史は不明である。

 

 藤堂家の伝記によれば、天正8年~9年(1580~81)にかけて小代一揆勢が天滝を越えて蔵垣野に来襲し数度かの合戦があり、藤堂高虎と栃尾源左衛門、居相孫作らが応戦し、小代勢の小代大膳、富安丹後、瓜原新左衛門を討ち果たし、その後小代の砦(城山城か)を攻略したという。『公室年譜録』(安永3年1774)、『高山公実録』(嘉永3年~安政元年・1850~1854)

 

 

 

 

 藤堂高虎の小代勢との合戦

 

 小代勢力を「天正9年(1581)此春 但州七美郡小路比(おじろ)村に砦を構えて、小代大膳・上月某党を集め、九十二人近郷に徘徊して人民を掠(かす)め侵す。秀長卿公(藤堂高虎)に命じて鉄砲数挺を附属し、是を制し討たしむ。・・・」

 小代一揆勢は大屋への進撃に大屋の横行や蔵垣が小代側についたため、藤堂高虎は苦戦を強いられたが栃尾・居相氏等に助けられ撃退することができ、小代勢側の富安氏、瓜原氏を討ち果たし、その後小代の砦(城山城か)を攻略したと記す。『公室年譜録』、『高山公実録』

 

  この小代一揆に関する確かな史料がなく不明であるが、藤堂高虎が羽柴秀長の指示で但馬西部の反織田勢の一掃を図るも、但馬在任中は最後まで小代勢には手を焼いたようで、決着は天正9年(1581)鳥取城攻めの直前、秀吉の指揮による制圧まで待たなければならなかった。

 

参考:大屋町史

 

 

▲県道脇の古戦場蔵垣野(表示碑)     ▲蔵垣かんどう塚(小代大膳の供養塔)

 

 

 

 

アクセス

 

蔵垣の「かいこの里」をめざすとよい。蔵垣会館の南、宝幢寺の東方にある。

 

 

    

 

 

 

 

 

▲上垣守国養蚕記念館               ▲登り口の先にフェンスが見える

 

 

上垣守国養蚕記念館の上に広い駐車場があり、山裾に登り口がある。フェンスがあるので、それを開けて、右に進むとすぐに左折れの道になったところに至る。左に入らないで、トタンの囲いの場所から取り付く。

ここから尾根筋に沿って登る。あとは地籍調査の表示が城跡地まで誘導してくれるのでまず迷うことはない。

 

 

▲フェンス                   ▲カーブの先が登り口 

 

 

▲トタンのある場所に取り付く         ▲尾根筋

 

 

30分ほど尾根筋を歩くといきなり大きな堀切が現れた。

幅約11m、深さ約10mと山城では大きなものだ。

 

▲大堀切

 

 

▲堀切の底から                  ▲頂上部を望む

 

数段の曲輪跡をのぼっていくと頂上に至る。主郭の南の縁は土塁が高く積まれているので主郭中心はすり鉢のように見える。土塁の先は大堀切で深くえぐられている。

 ここからさらに尾根筋が続くが、城跡が尾根の中腹にあることがわかる。

 

 

▲主郭部                    ▲主郭背後の大堀切 

 

 

▲反対側から主郭を望む                 ▲尾根筋はまだまだ続く

 

 

 

雑 感

 

  小代一揆勢が一度ならず何回か押し寄せて蔵垣野で合戦があったといいうが、そのことが終始気になっていた。

 

  藤堂家の伝記に藤堂高虎と小代一揆勢が蔵垣の地で幾びかの合戦があったことが記されている。高虎は羽柴秀長に小代一揆掃討を命じられるが、小代に通じる大屋谷の横行・筏・蔵垣が小代に加担し、それを阻んだこと。また、一揆勢が加保の栃尾加賀祐善の館を包囲し藤堂、栃尾と争ったとある。その襲撃に瓜原新左衛門の名が出てくる。

 大屋町大杉の小字に瓜原があり、瓜原氏は大杉の武将と考えられている。大屋町史には、瓜原氏が大杉城に居城していたのではないかと推測している。瓜原氏は大屋加保の栃尾氏と藤堂高虎との結びつきをよく思わなかった人物の一人だったのか、小代勢と手を組み、西谷を基盤に大屋川を挟む堅城大杉城と蔵垣城を盾に藤堂・栃尾の勢力に立ち向かう。小代から幾つも峠を越え、深い谷を抜け大屋の地に侵入した小代一揆勢の狙いは藤堂を倒すことだったのだろう。その力を与えてくれたのは大屋の武将瓜原氏だったと考えれば、小代一揆勢は反織田勢の躍起で大屋蔵垣の戦いを可能にしたのではないかと・・

 

城配置図

 

 

 

 [関連]

・大杉城 http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=21500…1465275435

・天滝と宝幢寺http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=13964…1314842686 

※宍粟・播磨の城跡 http://shiso-sns.jp/community/?bbs_id=122

 

 


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