宍粟・播磨の城跡の「三石城跡(その2)と船坂峠 (備前市)」
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三石城跡(その2)と船坂峠 (備前市)
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2016年02月13日 23:03

三石城跡(その2)と船坂峠     備前市三石

 

 三石城跡を大手道ルートで登城したいと思いつつも、すでに3年が経っていた。

今回やっと大手道からの登城で展望のよい見張り所や大きな井戸跡等を見ることができた。山ろくに延びる西国街道の数キロ東には船坂峠があり、そこにも立ち寄ってみた。

 

 

 

 ▲三石城跡の全景(南東から)

 

 

三石城大手道(おおてみち)からの登城

 

 大手道から登るほどに広がる眼下は気持ちがよく、時より山ろくを走る電車の音に目をやる。ここ備前三石城は人工林が少なく、自然林が比較的低木なのでそれぞれの見張り所からの展望がよい。そのため築城当時の見張りの感覚で見ることができる。

 大手道の半ば、山肌に露出した岩場あたりは急斜面となる。第一見張り所から城山を見上げたとき林の中に石垣を見ることができた。

 谷筋を登り切ったところに大手門跡が待ち構えていた。三石城の最も味わい深い場所である。

 

 

 

 アクセス

 

 

▲城山マップ                   ▲「三石城の栞 編集西川晃男」 より                 

 

 

  

城下町筋に案内板がある。登り口はこの奥にある。階段を登る途中の民家に、三石城跡の説明書の栞(しおり)が用意されていた。

 

 

途中右手奥に宝篋印塔が目に付いた。三石城の武将のものだろうか。

 

 

 

上部には第一見張り所まで右700mとある。左に第二見張り所がある。

 

  

 

 

 

第二見張り所に城址の説明板がある。ここからの展望は南一円に広がっている。

 

 

 

さらに登っていくと、岩場の狭い道がある。。

 

  

 

その近くに、「息つぎ井戸」という岩の縁に小さな水たまりがある。その先に「千貫井戸」の案内板がある。

 

 

千貫井戸は横長2m、幅1m程あり今でも水をたたえている。篭城には貴重な水の手である。

 

 

 

 ▲第一見張り所 

 

 ▲第一見張り所からのパノラマ展望

 

大手道から左に進むと、第一見張り所に到着。結構広い削平地になっている。ここからの眺めはいい。

 

 

 ▲第一見張り所から山頂を望む       ▲木々の間に石垣が見えた(望遠)

 

 ▲三の丸下にある石垣 

 

元に戻ろうと振り返ると、山頂の木々の間に石垣を発見。前回見落としていた石垣だった。

 

 

 

 ▲大手門跡

 

次に間道本丸跡への案内に進み、谷筋に沿って上っていくと大手門跡だ。左側の石垣の隙間が目立ち何らかの処置が必要に思う。こういった大手門は近世の平山城・平城の城造りの原型になった貴重な戦国期城跡だ。

 

 

 

船坂峠

 

 

 ▲国道2号線 上郡町から        ▲旧道 勾配9% 境には車止めがある

 

 

 三石城の南麓を走る西国街道(山陽道)の北東約2kmには船坂峠という西国街道随一の難所がある。この峠は備前国と播磨国の国境にあり、現在の行政区割りでいうと、岡山県と兵庫県の県境で、ひいては近畿地方と中国地方の境目になる。江戸期には関所があり、この国境をへだてて備前と播磨の生活・文化や言葉(方言)の違いが見られるという。

 

  

▲県界          ▲播磨国・備前国境

 

 船坂峠のことは「太平記」児島高徳が隠岐遷幸の途にある後醍醐天皇を救い出そうとしてこの峠で待ち伏せしていたこと、赤松円心の鎌倉幕府打倒の挙兵に赤松貞則が鎌倉加担の西国武将の上洛をくい止めたこと、足利尊氏が九州落ちに際し、尾張氏頼がこの地に留まったこと等が記されている。

 

 ▲船坂山義挙之趾

 

 

 

■ 羽柴秀吉の中国大返し 

さらによく知られている「羽柴秀吉中国大返し」で、大軍がこの船坂峠を利用している。 

中国大返しとは、天正10年(1582)本能寺の変を知った羽柴秀吉(兵3万)は備中高松城攻めの最中であったが、すばやく毛利と和議を結び、明智光秀討伐を急いだ。記録では京都山崎までの約180kmをわずか8日間で行軍を果たしている。その速さは当時の行軍としてはありえない記録的なものであった。これが実現できたのは、足軽の行軍を早めるため、兵站(へいたん)の部隊が武器(銃・刀・槍)弾薬・食料等の輸送に海路を利用したとのではないかという説もある。その海上ルートは牛窓から坂越(さこし)、片上(かたかみ)津から赤穂岬が考えられるという。

 

■ 秀吉の賭け

  明智光秀が主君織田信長を討ち取った旨の書状を使者に持たせ毛利に遣わしたが、こともあろうに敵方の羽柴秀吉に捕らえられた。秀吉は、毛利との和議を終えて、突如逃げるかのように兵を引く。和議の後、毛利は本能寺の変の真実を知った。しかし毛利は動かなかった。吉川元春が追撃を主張したが、小早川隆景が押しとどめたことが伝わっている。

 それにしても、よく語られる軽装備の場合、追撃されれば被害は甚大であっただろう。しかし秀吉は、毛利が本能寺の変を知った場合でも、追撃もしくは挟撃の行動に出ないことに賭けたものと思われる。その賭けの根拠は、備中高松城の戦いに毛利が秀吉軍よりも多くの援軍を送りながら、秀吉の水攻めに、なにも行動を起こさなかったその静観的・消極的態度に「毛利に戦意なし」と見抜いたからではなかろうか。

 

 

 

参考:「角川日本地名大辞典」「新説戦乱の日本史2」

 

 

雑感

 

 今回は、三石城の築城当時の見張りの視線を感じることができたのと第一見張り所から茂みの中の石垣が見えたことが印象に残っています。後日、地図マップを見ていると、大手道の入口は町筋からではなく、西の尾根筋からではないかと感じています。

 

 江戸時代には船坂峠には関所があり、山陽道の備前側には三石、播磨側には上郡町有年(うね)に宿場があったという。この船坂峠の道が今どのようになっているかについてははっきりしていないと聞いています。そのため何時かはその道を探ってみたい気持ちもあり、またしても三石・船坂に宿題を残しています。

 

 

 

関連 三石城跡(その1)

http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=15165…1326786855

※宍粟・播磨の城跡

http://shiso-sns.jp/community/?bbs_id=122 

 

▼地図表示は登山口を指す

 


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Re[2]: 三石城跡(2)と船坂峠 (備前市)
【返信元】 Re: 三石城跡(2)と船坂峠 (備前市)
2016年02月19日 21:35
身体が第一なので、急がずじっくり直してください。

最近、高田城(上郡町)、平井城(たつの市)、広峰神社奥の弥高山城、置塩城東の南条山城等を立て続けに行きました。いずれも難所で相当の時間を費やしました。それから、光明山城では北の林道からの再訪で新たな発見もありました。その中で興味がありましたら声をかけてください。一緒に行きましょう。
Re: 三石城跡(2)と船坂峠 (備前市)
【返信元】 三石城跡(その2)と船坂峠 (備前市)
2016年02月19日 06:53
14日の太田城登山の中止は残念でした。

三石城、いいですね。
ここも再訪したいところですが
なかなか実現しません。
いまが、山城探索のシーズンなのですが
体調不良などもあって、
なかなか思うようにいきません。

タケネットさんの行動力をみならって
もっと頑張らねば!と思うのですが・・・