宍粟・播磨の城跡の「播磨 松山城(姫路市林田町)」
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播磨 松山城(姫路市林田町)
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2015年06月05日 21:55

 はりま      まつやまじょう

播磨 松山城 姫路市林田町松山 

 

 

 

▲林田川の西岸から城山を望む

 

松山城周辺図

 

 

松山城のこと

 

   林田川に沿って南北に延びる因幡街道を眼下に見下ろす「かます山」(標高140m)別名妙見山、天神山にある。山頂には平坦で細長い(長さ170m幅25mほど)主曲輪が南西方向に延びている。築城時期は不明であるが、戦国期の宍粟郡に続く因幡街道の見張りに重点をおいた城郭と考えられる。

  城主は、伝承では戦国時代の武将衣笠村氏で、置塩城主赤松義村の幕下であったという。永正15年(1518)赤松総領家の宿老であった浦上村宗は赤松義村に背信し、備前三石城(備前市三石)に立てこもっている。そのときの松山城主が衣笠村氏であった。村氏は浦上村宗の姪婿であり、村宗に味方したため赤松軍1千騎の兵が林田松山城に押し寄せ城は落とされ、城主は行方知れずと伝えている『播磨鑑』。

※『播磨鑑』には赤松政村とあるが、義村の誤りであろう

 

  永正17年(1520)長水城主と竜野城主赤松村秀らが、義村方の勢力奪回をはかり松山城や窪山城(林田)を次々に攻略したという「山崎町史」。

  秀吉軍の播磨侵攻で長水城主宇野氏(宍粟郡)攻めのとき行軍ルート上の林田松山城(城主本郷宗祐)は攻め落とされたと伝わるが、秀吉が松山城主宛の遣わした文書『福岡文書』(山崎町川戸)には城主に過酷な処置を迫った状況から松山城は戦わずして降伏したことを示している。

 

 

    □ 羽柴秀吉掟書

 ▲「福岡文書」旧川戸村福岡戸平冶旧蔵 兵庫県史資料編中世3

 

      要約 

 

条々 

一、所領を取り上げ闕所(欠所)とする

一、(家来など)下々のものは奉公させる

一、もし不当という者がいれば成敗するので、中で裁くことはならぬ。(川戸村の)二ツ築地からまて岩までの難所を整備するべし

 

 

浦上村宗のこと

  浦上村宗は赤松総領家の宿老であったが、赤松義村が浦上を排除する動きに対し反発し備前三石城(備前市三石)に立てこもり主家赤松家に反旗を翻した。以後数年に渡る浦上と赤松の抗争の結果浦上村宗は義村を室山城(室津)に幽閉・謀殺した。村宗は赤松の跡目に義村の嫡子才松丸(政村後の晴政)を擁立し、その後見人となり、備前守護代となった。しばらく赤松家の専横をはかるが、政村との抗争が表面化し、一時和睦をするも享禄4年(1531)大物(だいもつ)崩れ(尼崎市大物町)で予期せぬ政村の攻撃を受けて戦死した。

 

 

秀吉の松山城主本郷氏への文書『福岡文書』から見えてきたもの

 

  羽柴秀吉軍がやってきたときの松山城主は本郷宗祐(宇野政頼の四男・長水城主祐清の弟)であった。松山城は揖東郡の北部にあり宍粟郡との郡境に位置していた。宗祐は宇野祐清の弟であり、当然宇野氏と手を組んでいたと考えられる。秀吉は宇野氏を滅ぼした後の天正8年6月19日(1580)、松山城主に容赦のない命令を発し、知行地(領地)没収と難所整備の労役を課す厳しい処置を下している。

 

 その文書に本郷氏のことを“謀叛悪逆人の弟”と宇野祐清を悪人呼ばわりし、その弟であるがゆえに知行を取り上げるとある。 戦国期の宇野氏は播磨西北部の宍粟郡に一勢力を保持・拡大し、戦国末期には宇野政頼と長男満景,二男祐清がいた。政頼は満景に家督を譲ったが、ほんのしばらくして弟祐清が跡を継いでいる。

  それは天正元年(1572)頃、伊和神社文書の宇野氏発給文書(1通のみ)に満景の名がほんの短期で消え、祐清に代わっているのである。伝承では親子の不和から満景は廃嫡され殺害されたと伝わる。『播州宍粟郡守令交代記』『赤松家播備作城記』等

 

  織田の播磨侵攻の当初は播磨の武将の多くは織田方に恭順していたが、加古川評定以後、東播磨を中心に反織田に傾いていった。その裏切り行為が謀叛だとしても、悪逆人と付け足して言い放っているのである。悪逆とは人道を外れたことであり、嫡男満景の制裁は祐清がからんだ親子の行為をいっているだろうか。文面は秀吉の宇野一類への問答無用の厳しい処置である。

 同年同月日に秀吉は四国をほぼ手中にしていた長宗我部元親にも書状を送っている。そこには三木城・英賀城・長水城の戦いの顛末が記されている。『紀伊続風土記』古文書部所収の『秀吉文書』。

 

 

宍粟郡・揖東郡・揖西郡の郡境(白線)   ※図:慶長播磨国絵図(部分)より 地名書き込み有り

 

  

 △昭和中期の頃の松山城の古写真

 

 

アクセス

 

松山城周辺図(案内板より)

 

 

 

松山公会堂の駐車場が利用できる(周辺図⑩P)

川沿いに、真新しい説明板がある。

 

  

▲松山公会堂                      ▲松山城跡の説明板

 

 

かつて因幡街道といわれた古道を北に50mほど歩くと右に北辰妙見社の石碑があり、川べりに入っていく。おだやかな川にジグザクに据えられた板橋はなかなか趣がある。

 

 

 ▲因幡街道を北すぐ          ▲北辰妙見社の石碑

 

▲妙見渕にある板橋

 

橋を渡ると、鳥居があり石灯籠をぬけ山中に入っていく。竹林の道には、崩れかけた石垣が目に入る。少し歩くと長い石段があり、上部に社が見える。これが北辰妙見社だ。途中の崩れかけた石垣の敷地が並び、松山茶屋垣内中とある石碑などから昔日の賑わいを感じる。

 

 

  

▲鳥居                           ▲山麓に石垣の敷地が並ぶ

  

▲社周辺はうっそうとした竹やぶとなっている   ▲石段の先にお堂がある

 

社の左側には五輪塔が散らばっている。北辰妙見社の右奥が登山口になっている。案内者がいたからよかったが、登口の案内板がなく地図だけではややこころもとないと思われる。

 

  

▲社の左端に散らばった五輪塔        ▲社の右奥が登り口

 

▲登り口。この辺に案内の矢印でもあればいいのだが。

 

 最初の小山を登り、城山の左(東)にとりついて登っていく。

 

   

▲道なき道を上方を目指して歩く           ▲左(東)に取り付いて登る

 

 

 やや急で道なき斜面を少しばかり登ると頂上手前には幾段の曲輪跡(虎口か)があり、その上が頂上だ。

新しい城郭看板が設置されている。この先には幅5m、長さ25mの主曲輪の長い平坦地が続く。東側に主曲輪をとりまく帯曲輪跡が見られる。

 

  

▲頂上手前の虎口にあたる曲輪跡         ▲最近設置されたばかりの城看板

 

 

▲頂上はなだらかで奥行がある       ▲木々の間からやっと見える展望

 

奥まった所には岩が突出して、その先(南面)はかなり急になっている。

 

 ▲南端の石群

 

 

雑 感

 

 城山からの見晴らしは悪く、芽吹き前の木々の隙間から林田川ががかろうじて見えるだけだった。主曲輪の長い平坦地からは因幡街道が目の前だが、それを感じるには残念な状態だった。

 

 宇野氏の滅亡について書かれたものに「長水軍記」(江戸時代)があるが、この物語の内容が未だに地域史の中で紹介され信じられているむきがある。今は城郭・歴史ブームとなっているというのだが、興味を持った人の中から一歩踏み込んで伝承ではなく実のところはどうだったか真実を探ろうとする動きが出てこないかなと期待している。

 

 

関連

・播磨 空木城(姫路市)
http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=21142…bbs_id=122

・播磨 佐見山城(姫路市)http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=21028…bbs_id=122

・備前 三石城(備前市三石)http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=15165…1326786855

・聖山城址と秀吉軍の行軍ルート http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=20665…bbs_id=122

・宇野氏と赤松氏の関係  http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=21043…1430300514

・宍粟・播磨の城跡 http://shiso-sns.jp/community/?bbs_id=122

・タケネット 「名城をゆく」  http://www.geocities.jp/takenet5177/meijou.html   

 


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