宍粟・播磨の城跡の「関ヶ原の戦いと黒田長政」
「関ヶ原の戦いと黒田長政」の書込一覧です。
新着返信
返信がありません
QRコード
関ヶ原の戦いと黒田長政
【閲覧数】1,094
2014年10月10日 16:25

関ヶ原の戦いと黒田長政

             

 

 

 

  10月上旬関ヶ原に地元郷土研究会主催の旅行で訪れた。関ヶ原に予定より30分早く着いたので、ボランティアガイドさんの提案で歴史民俗資料館の北向うにある黒田長政の陣跡に行くことになった。

  山すそにバスを止め、そこから山手を望むと旗がたなびいていた。関ヶ原の地形を見てみたいという個人的な思いがあったので、予定外の動きにワクワクしながら歩いた。

  見通しがよい陣跡からは、目の前に工場や家が立ち並び当時の風景とは違うが、戦場の広さと地形を見たり、小早川秀秋が陣をしいた松尾山も見ることが出来たのはラッキーであった。

 

  ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 

  関ヶ原は、 北は伊吹山系、南は鈴鹿山系にはさまれた南北2km、東西4kmほどの狭い地域である。古代より東西交通の要衝の地であった。伊吹山の影響を受け、日本海型の気候が見られ、冬季は北西の方角から伊吹おろしと降雪に見舞われる。

 

 

 

 

 

天下分け目の関ヶ原の戦い

 

  慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とした西軍がここ美濃不破郡関ヶ原において激突した。それは全国の大名が二つに分かれ雌雄を決する天下の分け目の戦いであった。

 

 

関ヶ原の戦いまでの黒田如水の動き

 

  関ヶ原決戦が近ずくなか、九州豊前の黒田如水は豊後の主力のいない西軍の城を次々と落としていた。慶長5年8月28日如水は元の領国の奪回を狙った大友義統(よしむね)が豊後に上陸したことを知り、急きょそれを追った。豊後国速見郡(別府市)の石垣原で黒田・細川連合軍と大友軍の死闘が繰り広げられた。それは関ヶ原の戦いの2日前の9月13日であった。

 

 

黒田長政 丸山に陣をしく

 

 長政の陣は西軍の本陣石田隊の近くの丸山に陣をしいていた。その場所は東軍の陣の中で最も高い位置にあり、味方の陣地も見通せる格好の場所で、烽火(のろし)場が置かれた。

 

 

▲南に小早川がいた松尾山が見える              ▲松尾山のズーム

 

▲黒田長政の陣跡からの展望(北から南方面)

 

  この丸山の陣には、竹中重門(しげかど)がいた。二人は奇しくも黒田と竹中の二(両)兵衛の息子であった。二人は、長政(松寿丸)が重門(吉助)の父竹中半兵衛に匿われていたときに、関ヶ原の北東の菩提山城(垂井町岩手)に8ヶ月ほど過ごした幼なじみであった。実に20年ぶりの再会であったという。

  長政は地元であり関ヶ原の地理に詳しい重門と組み、西軍石田隊を守る屈強の島左近清興に勇猛果敢に立ち向かい追い詰める働きをし、さらに西軍の小早川秀秋や吉川広家など諸将の寝返り工作、いわゆる調略が功を奏し、戦いはわずか1日で決着した。

 

 

 陣形図 (東部の布陣は省略)  昭和22年の航空写真(国土交通省)上に作図

 

 

  戦後の論功行賞では、長政は関ヶ原で一番の働きと評価され筑前名島(後の福岡)で52万3千石を受領した。ちなみに竹中重門については、最初は西軍に組みしていたが、途中東軍に寝返えっている。関ヶ原では伊吹山中に逃げ込んだ西軍の小西行長を捕縛するなどの手柄を立て、美濃岩出山6千石を安堵され、以後幕府旗本として仕えた。

 

 関ヶ原戦陣図屏風(部分) 石田三成隊を攻撃する黒田長政隊 

 

                福岡市博物館蔵

 

 

雑 感 

 

  関ヶ原に行って、長政の高台の陣跡から小早川のいた松尾山や東軍・西軍の陣地を見て、おおよその地形・陣配置がわかった。次回ここへ来る機会があれば、その松尾山に登りたいと思っている。小早川が東・西両軍の陣と兵力が見て取れる格好の場所に陣をしき、いつ寝返りを決意したのか、それは陣をしく前からなのか、それとも戦況を見てからなのかを想像してみたいからである。また小早川の動きに呼応した脇坂・朽木等の陣跡も見てみたいと思っている。

 

 昭和22年の大日本紡績関ヶ原工場

 

  昭和22年の航空図を見ると何やら大工場のような建物が見える。ボランティアガイドさんがこの地に昭和の時代ユニチカの工場があり、女工3、500名が働き活気に満ちていたことを話されていたので、これがユニチカなら時代が合わないが・・・何だろう? と調べてみると、ユニチカの前身の大日本紡績関ヶ原工場(大正13年・1924年創業)であることがわかった。

 

 この関ヶ原町には関ヶ原の戦い、壬申の乱など歴史の転換期の貴重な遺跡・遺産が残され、観光地として賑わって入る。しかし一方関ヶ原町は明治以降日本の基幹産業の一つ紡績で栄えた城下町であったが、ユチカが80年代の紡績不況で去ったあと大規模な土地の再利用が町の課題として残されている。

 

 

 

 

 ※関連:九州の関ヶ原 ~如水九州制覇をめざす~ http://blogs.yahoo.co.jp/takenet7/35407087.html

 

宍粟(しそう)・播磨の城跡 http://shiso-sns.jp/community/?bbs_id=122

◆ タケネットの名城をゆく 名城別アドレス http://www.geocities.jp/takenet5177/meijou.html

 

▽地図表示は黒田長政の陣跡


返信書き込みはありません。