宍粟・播磨の城跡の「赤松氏ゆかりの城 ~三木合戦~」
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赤松氏ゆかりの城 ~三木合戦~
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2012年03月16日 17:30

赤松氏ゆかりの城を訪ねて

 

三木城跡  三木合戦のこと

 

                             ▼三木城主別所長治

      

 

合戦前夜の播磨の情勢

 

 室町期の播磨は守護赤松氏の所領でしたが、嘉吉の乱(1441)のあと、没落し再興されるまでに、一族や家臣が台頭し、別所氏もその一族で東播磨8郡を支配するまでに勢力を伸ばしていました。

 

 

 

 織田信長の天下統一の命を受け、明智光秀に丹波を攻略し、羽柴秀吉に中国攻めの総大将に命じました。そのころ播磨地域は、毛利と織田両者との友好関係を保っていました。

 

 秀吉は、天正5年(1577)10月に西播磨の上月城や福原城を落とし、この時点で、播磨全域が織田の勢力下になりました。

 

 しかし、同年10月、秀吉は中国毛利攻めため東播磨の諸豪との評定(軍議)を加古川城で行いましたが、その席上、別所長治の代理で出席した叔父の別所吉親(賀相)と秀吉に不和が生じ、翌年の天正6年(1578)3月、別所長治は吉親の説得により織田に反旗をひるがえし毛利方に付くや、東播磨一帯の国人衆や浄土真宗の門徒を多い中播磨の三木氏や西播磨の宇野氏が同調し、毛利の援軍を頼りに、織田・秀吉との徹底抗戦の道を選びました。

 

 

三木城に籠城

 

 三木城には、東播磨一帯から約7,500人が集まりました。この中には、別所氏を支援する国人衆やその家族や浄土真宗の門徒なども含まれています。よって、多くの兵糧も必要とし、それは、瀬戸内に制海権をもつ毛利の水軍により、高砂城や魚住城など海辺の城を経由して加古川や山道を使って三木城まで運び込まれました。

 

▼三木城周辺城郭配置略図                   ▼三木城攻防関連図

  

 

  秀吉は、籠城の構えをみせた三木城への直接の攻撃をさけ、兵糧の補給路になっている支城の攻略を始めました。天正6年(1578)4月上旬野口城陥落。7月20日神吉(かんき)城陥落。8月10日志方城開城。

 

 天正7年(1579)2月、別所氏は局面打開のために秀吉の本陣平井山に約3,000人が出兵し戦ったが、戦力不足と不利な地形により敗戦。同年6月13日に秀吉の武将竹中重吉(半兵衛)が陣中で病死。

 

▼三木城包囲の秀吉軍武将配置図

 

 天正7年(1579)5月、摂津からの兵糧輸送のルートの丹生山明要寺と淡河(おうご)城が攻略される。同年6月には、共同戦線をしいていた八上城主波多野修治が明智光秀に落とされています。同年9月毛利軍による魚住から三木城への兵糧運搬の作戦で三木軍が城外に出て大村附近に出兵しますが、これも敗戦し兵糧運搬に失敗。織田氏は降伏勧告を行うが、別所方は拒否。

 

 同年10月には毛利方にあった宇喜多直家が離反し、毛利氏と播磨・摂津間が分断され、毛利の支援の道が遠のく。11月には、荒木村重の有岡城が落城。(幽閉されていた黒田官兵衛が救出される。)

 

 城内の食料が底をつく飢餓状態が続き、天正8年1月14日城主一族の切腹により城兵の命を助けるという条件で、1年10ヶ月に及ぶ籠城戦が終結しました。

 

城主別所長治の辞世の句

 

 

    今はただうらみも

         あらじ諸人のいのちに

            かはる我身とおもへば

 

  訳:  領民の命と引き換えに死ぬのなら、今は何の恨みもない。

 

 

 ▼別所長政の辞世の句 (上の丸公園)   ▼別所長治公・照子夫人首塚(雲龍寺)

   

 

「三木城」関連年表

 

●天正6年(1578) 3月       三木城で籠城開始

                3月29日   秀吉、三木城攻略に着手

                4月上旬  野口城陥落

                7月20日   神吉(かんき)城陥落

                8月10日   志方城開城

     

●天正7年(1579)  9月     毛利軍、魚住から三木城への兵糧運搬に失敗する

 

●天正8年(1580) 1月17日  三木城陥落

 

参考:「西播磨の戦国時代(たつの市立埋蔵文化センター)」「探訪 三木合戦(三木市観光協会)」

 

 

雑感

 

 この三木合戦で多くの人が戦死し、或いは餓死したであろうことは、若い城主のあまりにも潔い辞世の句がその心情を物語っています。

 別所長政は若干23才の若者。父安治が若く病死し、長政が家督を継いでのち、別所家の実質経営は二人の叔父(別所吉親・重宗)が動かしていたようで、明石評定に、もし長政本人が出席していれば秀吉とどう向き合っただろうか。(二人の叔父は意見が別れ、吉親は反織田、重宗は、城を出て織田方に付く)

 

 平成22年に『三木城跡及び付城跡群総合調査報告書(三木市教育委員会)』が発刊され、その報告書で定説を覆す新説が話題になっているようです。それは、城主の城兵の命乞いにもかかわらず大量殺りくがあったことが指摘されているからです。

 その根拠は、三木城の落城後に秀吉自身が「ことごとく首をはねた」と書状で伝えている事や、宇喜多直家も「切腹した者以外は一箇所に集め、ことごとく殺す」との報告を受けている事、また天正8年(1580年)4月、敵方の石山本願寺の顕如が「抵抗を続ければ、有岡や三木同然になる事は明らか」と言っていることに着目しています。定説は『播州御征伐之事』など後世に書かれたもので、秀吉の功績を美化する為に書かれた物であると指摘しています。

  

 

※三木城跡

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