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2011年09月22日 14:22
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安志藩(その2)~小笠原氏について~安志藩初代藩主は小笠原長興(ながおき)。着任当時は弱冠5歳。この小笠原氏がどのような理由ではるばる豊前国中津(ぶぜんのくになかつ) (現大分県中津市)から播磨の山間の地にやってきたのでしょうか。
▼豊前国中津から宍粟郡安志までの遠き道のり
▼ 中津城
▼中津城周辺図
▼安富町安志周辺 昭和40年頃(「町勢要覧1966」より)
まずは小笠原家の家系を見てみましょう
▼小笠原家略系図 1)小笠原家の家祖~小笠原流~▲小笠原長清(弓馬術礼法小笠原流の祖) 画:江戸時代『前賢故実』菊池容斎より
小笠原家は、譜代の小藩で、甲斐国(かいのくに・山梨県)小笠原を出身地とする小笠原長清(ながきよ)を家祖とする名門といわれています。鎌倉期には足利尊氏に仕えた貞宗(さだむね)は、信濃国守護となり以後繁栄し、武家礼法(小笠原流)の家として重んじられてきました。 2)祖先の功労と安志藩立藩までの流れ元和元年(1615年)大阪夏の陣で、徳川方の小笠原秀政(松本城主)・忠脩(ただなが)父子は討死しました。家督は秀政の二男忠眞(ただざね)(忠政)が継ぎましたが、忠眞は、胎内にいた忠脩の子の長次が生まれるや養育し、長次が11歳の寛永3年(1626)6万石で播磨国龍野に封じられました。長次が龍野藩主に取り立てられると、忠眞は長次を正嫡として代々の重宝を譲り、代々の重臣の犬甘(いぬかい)氏を付けて補佐させました。その6年後、寛永9年(1632)豊前国中津八万石に移りました。忠眞は明石10万石から小倉15万石に加増鞍替えになりました。 このように小笠原秀政の子の四兄弟が豊前・豊後・肥前の北九州地方は小笠原一族が領することになりました。 その長次の後継は、長勝(ながかつ)→長胤(ながたね)[8万石]→長圓(ながのぶ)→長邕(ながさと)[4万石]と続きましたが、享保元年(1716) 長邕が6歳で没し、いったんは無嗣断絶になりますが、祖先の功労(大阪夏の陣)により特別に家名の存続が許され、弟長興(ながおき)に宍粟郡内及び他2郡の領地1万石が与えられ播磨国宍粟郡に来ることになったわけです。 3)宍粟郡と中津との関わり以後、安志小笠原家と北九州の各藩、特に小倉藩とは密接な関係が出来上がりました。さらにさかのぼると、羽柴秀吉の軍師として活躍した播磨国姫路生まれの黒田官兵衛が、天正12年(1584)に宍粟郡を受領し篠の丸城主となり、3年後の天正15年(1587)に豊前国の中の6郡(およそ12万5,000石)の中津城主となっています。その中津城の城主は黒田氏のあと細川氏につづき小笠原(長次)氏が受け継いでいるのです。 また、官兵衛の嫡男黒田長政は、関が原の戦いで東軍の家康について大手柄を立て、52万3千石の筑前福岡藩主となっています。
・参考「安富町史」
◇下記マップは、小笠原氏の出立した中津城
http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=14295…bbs_id=122 ※安志藩(その1) 陣屋跡を歩く http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=14149…bbs_id=122 ※しそうの城跡一覧 http://shiso-sns.jp/community/?bbs_id=122
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Re[2]: 安志藩(その2)~小笠原氏について~
【返信元】 Re: 安志藩(その2)~小笠原氏について~
2011年09月22日 17:39
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なるほど。藩領の中の縁組については、納得がいきますね。
お母さんから聞いておられたジンザイザカについては、調べてみます。おそらく染河内の東河内から一山越えれば安富の関なので、この峠か、そこに向かう坂ではないかと推測しますが、聞いてみます。 地域周辺の歴史を辿っていくと、いろんな繋がりが見えてきます。現在安志藩(その3)を作成中ですが、小さな村単位で、所轄の藩が違っていて、その所在が文章や文字だけではわかりづらいので、いま地図に落としているところです。 |
Re: 安志藩(その2)~小笠原氏について~
【返信元】 安志藩(その2)~小笠原氏について~
2011年09月22日 15:59
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タケネットさんの地名由来、染河内のところにもあるように、染河内の大半が小笠原藩領だったので、安志との縁組が多かった、と染河内能倉生れの母が言っていました。例えば、染河内の多田家へ安志の有末家からお嫁さんが・・・。そのとき、ジンザイザカを通った、と言っていたと思うのですけれど。それがどこを通っているのか分かりません。
安志の小笠原さんがあのオガサハラ流とはしりませんでした。 それと、シサハの郡からの安志なのだから、やはり宍粟にいて欲しかったですね。 |
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