宍粟・播磨の城跡の「本多藩時代の参勤交代(その7)」
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本多藩時代の参勤交代(その7)
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2011年08月23日 16:01

 山崎本多藩時代の参勤交代  江戸出発への道

 

 ▼武士の共揃え

 ▼参勤交代の出発ルート 

 

 

 

  

  本多藩陣屋の東、清水口御門を出て、坂を下り右に折れ、少し進んだ所に※道標があり、そこを左折し稲垣神社前を通り、揖保川堤防沿いに600mほど南下すると、船元の渡し場の渡し舟で須賀沢に渡り、安志・飾西・御着を抜け東海道(時には中山道)を経由し江戸に向かったという。

※ 道標の背面には寛政(1796)の建造とあります。その後ろに、郷土研究会による記念碑が建てられ、そこに「史跡 旧因幡街道」「由来 山崎は古来山陰山陽を結ぶ最も重要な地点で今日の国道29号線は昔因幡街道といはれたコースである。鳥取から南下して東和通りを総道神社で東へ折れここから又東へ須賀の渡しを渡って安志林田を経、姫路へ達した。」とあります。

 

 ▼道標の左 あんじ(安志)方面に進む             ▼「道標」 と 「史跡 旧因幡街道」の碑                

   」

 

▼稲垣神社前を直進する               ▼揖保川を堤防沿いに南下する

 

 

▼船元の渡し(須賀の渡し)場跡 

 

 

  船本の渡し場の説明碑には、「揖保川は山崎城下防衛の第一線で外堀の役をするので因幡街道の要衝であったが、特に橋をかけず渡し船で往来した。須賀の渡しとも言う。」とあります。

 

 

  南北に伸びる揖保川には東からの攻撃を防ぐ大きな外堀の役目をもたせるとともに、その豊富な水を活かした水運が発達し、網干までの高瀬船の運行や筏流しで多くの物資・木材が運ばれました。当時山崎より南部の揖保川を横切る街道筋の要道には橋を架けない代わりに渡し場が多く設けられていました。

  本多藩の参勤交代には、この船元の渡しを利用し、当初は48名の共連れと74人足を加え122名が安富・飾西・御着を経由し、東海道(時には中仙道)を利用して約16日かけて江戸に向かったその詳細な記録が残されています。本多の殿様は、この船元の渡し場(須賀の渡し)で、家来衆や多くの地域農民に見送られて渡っていったのでしょう。

 

参考 「本多藩時代の山崎 第3集」

 

※地名の由来「船元」

http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=7125&…02…

※一枚の写真「水運物語Ⅰ」 出石の河岸と現在
http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=7019&…;bbs_id=99

 一枚の写真「水運物語Ⅱ」 出石の船着場跡

http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=7032&…;bbs_id=99

 一枚の写真「水運物語Ⅲ」 宇原の渡し

http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=7051&…;bbs_id=99

 ※しそうの城郭アドレス一覧

http://shiso-sns.jp/community/?bbs_id=122

 

「E-宍粟」支援隊そーたんs


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