宍粟・播磨の城跡の「篠ノ丸城(その4)宇野氏」
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篠ノ丸城(その4)宇野氏
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2011年07月13日 13:48

篠ノ丸城(その4) 宇野氏

 

   篠ノ丸城(その3)に引き続いて、宍粟城郭研究会代表の藤原孝三氏の「宇野氏の研究」を紹介します。内容がかなり専門的になりますが一読ください。

 

 

宇野氏の研究 

 

1.政頼は「越前守」であろう。

 

  地元や今までの文献解説において「宇野政頼・下総守」とされてきた。しかし、現在まで明確にその「官命」を記した文書をみていない。

 永禄5年(1562)8月の時点で、親の村頼が「越前守」であり、政頼が「蔵人」である。天正2年(1574)以前 、子の満景が「蔵人」となっており、政頼は親の官名を継いだと考えるのが当然と思われる。宇野氏にとって「総領家当主の官名」は、「越前守」「備前守」が主である。「下総守」もなくはないが、当主の関連者であろうと思われる。

  『建内記』嘉吉元年(1441)9月28日の条に、宇野次郎満貴、西八郡守護代とあるが、それまでの文書に依れば、永亨年間(1429~41)の守護代は「宇野越前守・某」であった。応仁(1467)から文明7年(1475)9月迄は「宇野越前守則尚」であり、則尚の嫡子は「宇野備前守則清」で宇野四郎、後に「式部太輔」になる人物である。

  宇野則晴の舎弟が、文明年間(1469~86)後半の「宇野越前守某・実名不肖」で法名「嘉順」であろう。この人物は 赤松政則から重用されていたが、文亀2年(1503)12月に逝去した『西光院殿前越前太守暁雲勝哲大居士』であろう。宇野則清の嫡子が「宇野越前守村頼」で、それ迄は宇野四郎又は蔵人則貞と名乗っていた、村頼の嫡子が「宇野政頼」であるが、政頼は、天文・弘治年間(1532~57)に文書発給をしているが、永禄6年(1563)まで宇野村頼が「越前守」を名乗っていた為「蔵人」なのである。

 そして 天正元年(1573)、嫡子の宇野満景が「蔵人」を名乗っている。この時 宇野政頼は「越前守」を名乗ったと考えているが、確証はない。

 ただ『言継卿記』永禄10年(1567)10月15日の条、手日記に「播州下揖保領家方之事、近年宇野越前守舎弟押領之事」とあり、越前守の存在が確認され、これが「下野守」であれば、全ての事柄が確認できる事となる。

 この場所は、かつて以前にも「宇野式部太輔則清」が押領した場所であり、総領家の支配と関連がある。

 

2.宇野清祐は、政頼の次男でない。

 

  『信長公記』4月24日の条に、宇野民部楯篭、親・伯父構とある。

                宇野下野、居城へ取懸(とりかかり)・・・

  これらは「羽柴秀吉文書」を参考にしているものと考えられるが、一度検討

する必要がある。本来、「下野守」の官名は、龍野赤松家のものとされている。

しかし、龍野赤松家の「広貞」「広英」は弥三郎を名乗り、下野守ではない。赤松政秀が「毒殺」されてから、「下野守」は、総領家に戻されたと考えられこの家も総額家からの分かれであった為そうなったと考えられる。この時期、赤松下野守の事が記された上杉文書があるが、どちらを指すのか断定はできないが、「下野守」を単純に「下総守」の間違いとしてはならない。これらの事柄は、将軍足利義昭が上洛をする為の工作の一環であり、毛利氏の戦略と連動するものである。

 従って、図示すれば次の様になる。

 

 

 

  天正2年(1574)のクーデターで「宇野政頼」が隠居したもので、当主は「下野守」である。また、美作の新免氏も味方ではなく、既に織田氏側になっていた。もちろん本郷氏も兄弟でない、ただ恒屋は弟である可能性がある。

 これらの事は、毛利氏と織田氏の戦略による事で、安国寺恵瓊(えけい)の策による所が考えられる。書写山十地坊過去帖で、千種で自害した人物を「宇野下総入道祐政」としているが本当の所がわからない。

 

3.長水山城は、本城ではなく、軍事的な城である。

 

  宇野氏の居城は「篠の丸城」であり、当時、二つの城が機能していた。

 宇野氏は、赤松前半期において西八郡の守護代であり、大きな政治的な権力と経済力を有していた、しかし、その「守護代館」は明確になっていない。それどころか政治的に必要な「政庁」も定かでなく、今までの伝承などでは、本拠地が「長水山城」であり、「篠の丸城」が出城であるかの様に言われてきている。これは近世以降において「長水軍記」や系図などの記録を基礎にして述べられてきた為であろう。

 城郭図で比較すれば、居住性や機能性を見れば明らかに「篠の丸城」が優れており、この地域の「地域支配力」をみても、明らかに二つの城の機能が異なっている事が明確である。  

その役目から見れば

     政治的な城     ・・ 篠の丸城

     詰の城        ・・ 長水山城

     北の境目の城   ・・ 千草山城

     関所的な城    ・・ 塩田城       などである。

 

  これらの事象を勘案して、その事を判断すべきである。

 

4、宇野氏の「守護代館」を探す。

 

  以前にも、この事柄について検討を試みた。

  その時の結果は「山崎町千本屋の場所」と考えたが、確証がなかった。その他「近世山崎城」の場所、現在の山崎小学校地かとも思う。この場所は、秀吉文書の「伯父の構」と考えられ、『陰涼軒日録』長亨2年(1488)8月5日の条、播州に侵入していた山名軍が撤退する際に、去月19日大河内討捕 首10、同20日広瀬城討捕分5・・・とある。 また天文年間(1532~55)、尼子氏もここに駐屯していたとする。いずれにしても、この場所は「要害の地」である。

 

 まず「千本屋の地」であるが、地限図によれば、前が「前田」後が「浦田」で、地割から見て「方形地形」で※隅切りが見られる。西に城下(じょうした)の地名がある、川向こうには「西方寺」もある。『建内記』嘉吉元年(1441)10月28日の条に「前守護代居所」と「宇野館」の記事があり、宇野館に入れずに、近くの「道場」に郡代を入れたとする。場所も揖保川の河岸段丘の先端で、北に「式内・貴船神社」が存在する位置関係になっている。

 従って、第1次の「守護代屋敷」はこの場所と推測する。機会があれば「発掘調査」をして欲しいと考える次第である。では、なぜそう伝わっていないのだろうか?それは、後に「宇野氏の業績が消された」からであろう!

 

場所の図を以下に示す。

 

  

 

「宇野氏の研究 藤原孝三氏」 より

 

※隅切り(すみきり):鬼門を避けるため、隅を切り落とし丸くする。鬼門(きもん)とは、北東(丑と寅の間)の方位のこと。陰陽道では、鬼が出入りする方角とされ、忌み嫌われる方角とされる。鬼門に対して反対の(南西)方向の裏鬼門(うらきもん)も同様。中世以降、城や館にはこの考えが多く取り入れられ、鬼門はまるく隅切りされることが多い

 

      ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 

  新しい歴史の読み解きは、目から鱗の感があります。机上で文献どおりを辿っていくと大きな落とし穴があり、確かな文献と城の綿密な調査によってこそ実体が浮かび上がるものでしょう。藤原氏が言われるように、西播磨を長期間君臨してきた宇野氏の業績が意図的に消し去られたものであるとすれば、その実体をつかむのは非常に難しいと思われます。しかし、屋形や菩提寺が消されたのであれば、どこかにその痕跡が見つかるはずです。その裏づけを今後の調査や研究で明らかにしていく必要があると思っています。そのことが、ふるさと再発見ならず新発見につながればと思います。

 篠ノ丸城は、登山道からではわかりにくいのですが、頂上の屋形部までに6段の郭(くるわ)、西に5つの郭があります。そして西端に大きな堀切が数箇所あり西からの進入を城を拒んでいる。北には生い茂る木々の中に棚田のような郭が8段も続いているのです。そして、北東の搦手道の先には、屋敷跡のある横須に至ります。

 中世時代、山崎平野を一望できる絶好の地に在する篠の丸城。城跡の一部破壊もありますが、ほぼ原型を残す「篠ノ丸城址」は、宍粟市の誇りうるものの歴史遺産の一つとして今後は大事に保存し、城の歴史を伝えていく必要があるように思っています。

 

※篠の丸城(その1)

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※篠の丸城(その2)

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※篠の丸城(その3)

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※篠ノ丸城(その5)

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※篠ノ丸城(その6)

 

※しそうの城跡一覧

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