宍粟・播磨の城跡の「篠の丸城(その2)城の役割 」
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篠の丸城(その2)城の役割 
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2011年07月11日 12:36

篠の丸城(その2)  城の役割

宇野氏の研究から

  長水城主の宇野氏についての研究を推し進めると、従来の定説を覆す結論に至るという。長水城と篠の丸城のそれぞれの役割はどうだったのか。宇野氏の肩書きは。守護代としての政務は何処で執ったのか、菩提寺はどこなのか。

従来の定説では答えきれないそして疑問の残る問題に、一つの答えが宍粟城郭研究会代表藤原孝三氏によって導き出されました。

  この研究は、信頼のできる関連の古文書や城址の現地調査から、斬新な史観で城を観たもので、その推論は整合性があり、納得がいくものです。赤松前半期の宇野氏は播磨八郡の守護代として大きな政治力と財力を持っていましたが、天正8年(1580)の秀吉による中国攻めによる落城しました。その後、宇野氏の業績が意図的に消し去られた可能性があるという指摘が非常に興味を持ちます。

 

   守護代屋形は何処に?小字が残す幻の大王寺とは?

   では、藤原孝三氏の「宇野氏と篠の丸城」を抜粋して紹介します。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

宇野氏と篠の丸城

はじめに

 

   山崎町の中心部には「篠ノ丸」と称されている立派な中世の山城跡が存在する。地元では宇野氏の居城「長水城」の出城であると伝承され、現在は城跡公園として整備されて住民の方々に憩いの場所として親しまれている。

 この事は、山崎を愛するものとして誠に喜ばしいことでありますが、公園整備としての山城跡の破壊が懸念されるのも事実である。

  実際に「遊歩道の整備」として、法面を削って階段状の通路が各所に見受けられる。もちろん、多くの方に散歩やリクレーションとして実際の山城跡に触れて頂けることは有意義でありますが、現在の我々としては城郭を歴史の証人として後世まで「有るべき姿」を伝える義務があると考える。

  その為には、歴史的にその価値を見直し、より正確な位置づけをすることが必要である思い拙稿をのべ、この研究の緒論にしたいと考える。

  先輩諸賢の方々には,ご批判を頂くことを承知の上で敢えて推敲するしだいである。

今回の論旨は、次の通りで考察を行った。

 

1、 宇野氏の系譜とその歴史的な事柄

宇野氏は、播磨に数所の所在が確認されており、それらの系譜を探る。

2、 「篠の丸」の解説

城郭図と城郭施設(郭・竪堀・通路など)の確認と検証

 

   従来から伝えられてきた歴史的な内容と随分異なるところもあり、また好まざる結果もあろうが、歴史の事実に近づける事として文献類を中心に推論をおこなうこととした。

 

 篠の丸城 城郭図  

  城郭は南面の門前地区を「大手口」とし、北の横須地区を「搦手口」として、山全体に郭が配置されている。篠の丸城郭は、標高324mの屋形部(本郭)を中心に、南・西・北に数多くの削平地を有する大規模な山城跡である。山城跡には、畝状竪堀(うねじょうたてぼり)を数多く設置し、井戸・横堀・堀切・土塁・城道などがあり、戦国後期の様子をよく残している。

 

 屋形郭(仮称)

 

最も中心になる郭は、南北50m・東西37mの削平地であり、北東と南西には、土塁を伴った横堀が残り、虎口(こぐち)は南の中央部に存在しており、形式は「ニ折の平入虎口」である。東西は5mの段差をもって城道にのぞむ、北面は多くの削平地が続いている。

 

篠の丸城の解説

 

「篠の丸城」は、地元をはじめ「赤松家播備作城記」には赤松越前守(越後守)顕則が初めて築き居城としたが、後に飾東郡庄山城に移ったと記す。

その後、宇野蔵人光景(満景)が居城していたが、天正2年(1574)父子不和により家臣に殺害され、その後は家臣の内海左兵衛が在城していたが天正8年(1580)羽柴秀吉により落城したとする。

これらの背景は、宇野氏の本城が「長水城」であり「篠の丸城」は出城とする。しかし、実際はどうであったのか?

 

篠の丸城は本城・長水城は詰の城

 

推論では「篠の丸城」が本城であり、「長水山城」は※詰の城であると考える。

赤松顕則は、伊豆守家の長子であり、家領地に塩田村3ケ村がみられ、戦国時代まで存続した、その為、拠点として山城を築いたことは推測される。※詰(つめ)の城:防衛上の最終拠点をいう。

現在の山城跡は、戦国期のもので、その「城郭」は度々改修されており、次のように山体全体に広がっており立派な山城跡である。

まず居城を考える場合、領主としては「地域支配や交通の利便性」などの経済的な面を配慮していたはずである。

一方、近世の戦記を主とする伝承では、この点が欠落している。

 

位 置

 

兵庫県に西南部、揖保川の中流盆地で山崎断層による東西交通路が交差する地点、川の湾曲するために土砂が堆積によって形成された川瀬が広がっている為「広瀬」と呼ばれている。その広瀬に突き出した山系の先端のピーク(標高324m)に山城は築かれている。山系の前面には河岸段丘がひろがり、そこに居館や構が所々に存在する。

 

▼ 明治後期頃  播磨新宮町史付図より

 

 

 

 篠の丸城(その3)につづく 

http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=13306…1310435891

 

※篠の丸城(山崎町)その1

http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=10881…1288792015

※しそうの城跡一覧

http://shiso-sns.jp/community/?bbs_id=122

 

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