宍粟・播磨の城跡の「塩田城(その2) 御着城主との関わり」
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塩田城(その2) 御着城主との関わり
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2011年07月04日 11:20

塩田城(その2)

塩田城と御着城主との関わり

 


   播磨鏡(江戸時代に書かれた地誌)には、「【鹽田構居】領主ハ※小寺藤衛門尉政職 天文12年(1543)移此所同14年又移于御着城」とあります。※正しくは小寺藤兵衛政職

  それによると、小寺政職(1517~1582)が天文12年から14年(1543~1545)まで塩田城の領主であったことが記されています。

 

   天文年間(1532~1555)に塩田村・土万村・塩野村(現在の塩山)の3ケ村が伊豆家領となっています。築城当初は伊豆家の政所を守るために構築されたと考えられ、赤松の家臣であった小寺政職がこの地にやってきたものと考えられます。(参照:塩田城その1)

 

御着城主小寺政職(まさもと)のこと

 

   小寺政職は、赤松の重臣で、赤松の再興に尽力し、播州平野の1大勢力を築きます。御着城主として多くの有能な人材を家臣として登用しました。その中に当時浪人であった黒田重隆・職隆親子がいました。彼等の能力を高く評価し、天文14年(1545)には黒田重隆を家老職に抜てきし、姫路城代を任せ、その子職隆には、養女を娶らせ小寺の姓と名の一字を与えるまでになりました。

 

 ▼御着城跡の石碑 

 

 

 ▼復元された御着城(姫路市東出張所・公民館)

 

 ▼播州餝東郡府東御野庄御着茶臼山城地絵図 (公民館掲示) 

 

   そして、政隆の子が、羽柴秀吉に仕え、軍師として秀吉の天下取りを押し進めた。それが黒田官兵衛その人です。 黒田官兵衛は、小寺の姓をしばらく名乗っていたが、織田方に主君小寺政職が織田から離反し毛利に付き、織田方に打ち取られて以降、元の黒田の姓を名乗るようになったといいます。

 

▼黒田官兵衛と御着城 (城趾の説明碑)

 

   御着城・姫路城のある播磨平野を舞台に、羽柴秀吉の中国攻めに、毛利と織田2大勢力のどちらに組みするか2者選択の決断が迫られるなか、その御着城主の判断のぶれと最終決断が城主(小寺)と家老(黒田)の絆を破綻させ、それぞれ没落と繁栄の道に別れていくことになります。

 

※塩田城(その3)

http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=15189…bbs_id=122

※塩田城(その1)

http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=10748…1287728809

※しそうの城跡一覧

http://shiso-sns.jp/community/?bbs_id=122

 

 

「E-宍粟」支援隊そーたんs

 

※マップ:御着城跡


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