宍粟・播磨の城跡の「山崎城(鹿沢城)その3」
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山崎城(鹿沢城)その3
【閲覧数】2,699
2010年12月31日 22:09

山崎城(鹿沢城)のこと (その3)

 

▼ 紙屋門                ▼本多氏の家紋 立葵の瓦

 

 紙屋門をくぐると史蹟山崎城(鹿沢城)本丸跡と山崎歴史民俗資料館がある。この周辺が山崎城’鹿沢城)の本丸跡(御屋舗地)である。

 

                                                                                                                                                                                

  

▲ 歴史民俗資料館は山崎町門前にあった明治21年治安庁(後の法務局庁舎)を移築・復元したもの

 

山崎城(鹿沢城)の御門の位置および内掘・外堀跡

   御門は、下図の赤字で記した外堀の北側、東から、清水口御門、※角鷹(くまたか)御門、中御門、土橋御門の4箇所、南側に新御門と鶴木御門の2箇所あり、各々番所が設けられていた。

 

※角鷹は大型の鷹の種類で 、その名は冠羽が角(つの)のように見えることに由来するという。この門の名は、両脇の瓦を角と見立て、羽ばたくような門形から名付けられたのかも知れない。

 

 

御門・堀跡の記念碑(郷土研究会)の写真①~⑧

 

▼清水口御門跡(郵便局本局の裏手) と明治後期の写真

 

▼中御門(聖旨保育園北側)

 

 

▼土橋御門(本家門前屋南駐車場付近) ▼外堀跡(聖旨保育園門右)

 

 

▼大手前(旧山崎市民局左)         ▼表御門(山崎小学校校門)

                             諸門の中では一番大きな門で、大門と呼ばれた

 

▼鹿沢城搦手(山崎小学校体育館駐車場付近) ▼内堀跡(本多公園の入口付近)

 ※この場所は、築城から池田氏3代の頃は大手口(表門)であった。

 

 

鹿沢城(陣屋)のあった鹿沢(山崎郭内)の地の移り変わり

 

 

 東西の山崎・南光線、城下を通る山崎・新宮線は、明治以降にできたものである。山崎新宮線の元になった道は明治10年代に旧藩士遠藤亘氏の発案により、搦手より南の土堤と石垣を崩し、城下へ続く坂道が造られたことによる。この坂は当時は遠藤坂と呼ばれていたが、今は知る人はほとんどいない。(⑦の搦手から南、ジャスコ前附近)

 

▼遠藤坂 (昭和中期)

 

 

山崎藩之図に現在の土地利用を示した図

 

 

図:「小藩陣屋町における武家地の現況1996 大阪教育大学地理学教室」より

 

 

 

 

PS:次回は、明治・大正・昭和の写真で山崎城(鹿沢城)・陣屋周辺の移り変わり見ていきます。

 

 

※山崎城(鹿沢城) その4

http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=11491…bbs_id=122 

 

 

「E-宍粟」支援隊そーたんs

 

 


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Re[2]: 鹿沢城(山崎町鹿沢) その3
【返信元】 Re: 鹿沢城(山崎町鹿沢) その3
2011年01月02日 11:49
そのように思います。

 山崎郭内の面積(現在の鹿沢)は約90,000坪(30ha)もあり、うち12,000坪(4ha)は陣屋だった。元は3~6万石の大名の居城で、各武家屋敷の数とその面積も広い。
 なにせ、広すぎて、地図に示された外堀跡を歩くだけで一汗かきます。

 明治以降の町の発展には道や施設、住居等が必要で、すべての堀は埋め戻されました。かろうじて残っているのは小さな溝で、堀の境界を示すだけになり、郷土研究会の記念碑がその位置を教えてくれるのみ。
 
 かつて城(陣屋)があった時代、そのまた昔の山城の時代、そのまた昔のたくさんの埋もれた歴史の遺産を浮かび上がらすために今何が必要か、そのタイムリミットが来ていると考えています。

 文化財の保存には、時間と金がかかりますが、将来につなぐ遺産は計り知れない価値を残すと思いますね。
 
Re: 鹿沢城(山崎町鹿沢) その3
【返信元】 山崎城(鹿沢城)その3
2011年01月02日 08:58

面白いですね。
西町近くの土橋御門の復元と外堀の発掘ができれば
山崎藩城下町の雰囲気が守れるのですが、やりたい
ですね。