宍粟・播磨の城跡の「山崎城(鹿沢城)その2」
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山崎城(鹿沢城)その2
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2010年12月28日 22:53

山崎城(鹿沢城)のこと (その2)

    揖保川とその支流菅野川が形成する河岸段丘の南端部に位置する近世の丘城跡。山崎藩の政庁で、山崎城・鹿沢城ともいう。山崎の地は山陽と山陰を結ぶ南北の街道と、山崎断層に沿う東西の街道の交差点位置する交通の要衝である。

 

    元和元年(1615年)池田輝澄(池田輝政の4男)が3万8千石で入封、山崎藩の政庁として築かれた。宍粟郡内の谷々が集まる扉のような地理的好位置にあり、城域の南は自然の崖地に石垣を積み、その裾野に揖保川から水を引いて堀とした。

 

   本丸は西・北・東の三方を※薬研堀の内堀で囲み、東と西に二の丸を置き、中堀を経て東と北と西に三の丸を配した。三の丸には上武士の屋敷を置き、外堀をめぐらせて北方の町屋と隔絶し、諸門を設けて城下町の陣容を整えていった。

※薬研堀(やげんぼり) 断面がV字形に掘った堀。薬研とは、漢方などの薬材を粉にするときに使う細長い道具で、その半月状の形からつけられた。

 

   寛永8年(1631)輝澄は佐用郡2万5千石を加増され、知行高は6万3千石となったが、同17年の家中騒動によって因幡国鹿野町(現鳥取市鹿野町)に※蟄居(ちっきょ)となった。そのため同年松井康映が宍粟・佐用両郡で6万石を与えられたが、佐用郡のうち平福領5千石を甥の康朗に、長谷領三千石を弟の康命に、佐用領2千石を弟の康紀に分与したため、康映は実質5万石の領主として山崎に入封した。※蟄居:江戸時代に武士に科した刑罰のひとつで、自宅や一定の場所に閉じ込めて謹慎させたもの。

 

    しかし、慶安2年(1649)に康映は石見国浜田(現島根県浜田市)に所替となり、その後へ備前岡山藩主池田光政の弟池田恒元(備前児島の領主)が宍粟郡のうち千種川流域の村々を除く知行3万石で入封。その後、政周・恒行と続いたが、いずれも若年で没したため、延宝6年(1678)に山崎藩池田家は廃絶した。なお、池田恒元の知行地は宍粟郡内107カ村で3万石であった。

 

   同7年(1679)大和国郡山(現奈良県大和郡山市)から本多政貞(忠英)が1万石で入封し、本多山崎藩が明治4年(1871)の廃藩まで続いた。知行地は現山崎町南部を中心として35カ村1万石であった。

 

   本丸の四隅には角櫓があり、南西の角櫓にはその下をくぐって藩主の邸へ通じる埋門(うずみもん)があった。幕末に藩士遠藤源介が描いた表門など城内外の写生図が残され、城の様子を知る貴重な資料となっている。

 

   現存する唯一の遺構は紙屋門と通称される門と土塀である。この門は二の丸から本丸に通じる本丸正面の玄関前に位置する高麗式透門である。建築年代は不明だが、門名の由来となった建築資金寄贈者紙屋氏の盛期や記録から1850年代の築造と考えられる。(兵庫県地名Ⅱ)

 

山崎城(鹿沢城)・陣屋の写生図とその位置

▼この図面は表門(北側)から南側に向かって書かれています。

 

 

 

 

※写生図(山崎本多藩記念館蔵)

 

隅櫓(土蔵)の写真

▼南側の隅櫓(紙屋門に向かって左側) ▼北側の隅櫓(紙屋門に向かって右側)

 

 

 

 

PS 次回は、内堀・外堀・御門の名残りと明治から昭和の山崎城(鹿沢城)の周辺の移り変わりを、面と写真で見ていきます。

 

 

※山崎城(鹿沢城) その3

http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=11411…bbs_id=122

※参考:地名の由来「鹿沢・山崎郭内」

http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=7067&…bbs_id=102

 

 

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書き込み数は12件です。
[ 日付順 ] [ 投稿者順 ]
Re[3]: 文化時代に再建された陣屋(想像図)
【返信元】 Re[2]: 文化時代に再建された陣屋(想像図)
2011年02月18日 20:55
タケネットさん、

そうでしょうね、これは一日は掛かりますね。
それに調査にはもっとかかったでしょうに。

それにしても、藩邸が小規模になったのは、単に
経済的な理由からですかね。
それとも、幕府ににらまれないように、自重した
のでしょうか。

この母屋の屋根は藁屋根ではないでしょうか。

タケネットさんの「鹿沢城その4」にある山崎篠陽
小学校の写真に、藩邸をそのまま使ったとありますが、
三棟ちゃんと並んでいて、この鳥瞰図の北側と同じ
です。 写真からすると藁屋根に見えますね。
Re[2]: 文化時代に再建された陣屋(想像図)
【返信元】 Re: 文化時代に再建された陣屋(想像図)
2011年02月10日 23:10
コーゾー君さんへ

今回の図は、まる一日かかりました。目が疲れました。

本多藩の屋敷図の焼失前と再建後をなんとかイメージとして描くことができました。この図を描くきっかけは、何といっても山崎本多藩記念館の横井氏にいろいろ関係資料や屋敷図を見せてもらったり、教えていただいたおかげです。それと、やすこさんやコーゾー君さんの後押しのおかげです。

かれこれ20年前山崎本多藩記念館で見た原色の写生図が気になっていて、これだけの資料があるのに何故模型もないのだろうとずっと思っていたので、その足がかりができたような気がします。

 それから、母屋の屋根は茅か藁でしょうね。
Re: 文化時代に再建された陣屋(想像図)
【返信元】 文化時代に再建された陣屋(想像図)
2011年02月10日 11:42
タケネットさん、
だんだん本格的な鳥瞰図になって参りましたね。

紙屋門が入りましたね!
母屋の屋根の色は茅葺きや、藁葺き等を示して
いるのでしょうか。
石垣を書くのも大変でしたね。

ありがとうございました。
文化時代に再建された陣屋(想像図)
【返信元】 山崎城(鹿沢城)その2
2011年02月08日 16:47
 山崎陣屋は、文化4年(1807)に焼失し、その後再建され明治(1868)になり、県庁舎・蓧陽小学校(山崎小学校)校舎に利用されました。

 その再建された陣屋の想像図(イメージ)を、県庁建物図面と写生図、小学校創立当初の写真を手がかりに描いてみました。

 焼失前の想像図と比べると、敷地が3分の2以下になっています。広い庭も建坪も縮小しています。その理由は、火事の類焼を考慮したものか、苦しい財政上の理由だったのか。いづれか、または両方が推測されます。

 この再建の後、紙屋門は屋号「紙屋」から資金提供を受けて建築されたものです。焼失前の陣屋の門は柵(さく)御門であり、少なくとも門は立派なものとなりました。

「E-宍粟」支援隊そーたんs
Re[2]: 山崎陣屋御殿の図
【返信元】 Re: 山崎陣屋御殿の図
2011年01月24日 16:02
イメージ図は文化4年(1807)に焼失したとあります。その後に建てられたものが、明治になって小学校に使われたようです。

このイメージ図は、おっしゃられた北側の3棟を参考にして、描きました。だれも見たことがない、もちろん写真もない200年以上前の屋敷なのです。

あとから建てられた陣屋の図面も残っています。それを見るとイメージ図の藩主の居所分を除いたような陣屋になっています。これが10枚の写生図が描かれた幕末に近い当時のものです。調子にのって、また描いてみようと思います。
Re: 山崎陣屋御殿の図
【返信元】 山崎陣屋御殿の図
2011年01月24日 15:32
凄い!素敵ですね!
では、篠陽小学校の写真で写っていたのは北側の3棟の前ですね。
Re[2]: 山崎陣屋御殿の図
【返信元】 Re: 山崎陣屋御殿の図
2011年01月24日 10:35
みごとに侵入されてしまいました。ご推察どおりでびっくりしました。図面に書かれていたものを書き入れてみました。
Re: 山崎陣屋御殿の図
【返信元】 山崎陣屋御殿の図
2011年01月23日 19:04
山崎陣屋御殿を俯瞰した絵図に感嘆しました。

この時期は、まだ紙屋門ができる前ですね。
この大手門から入って、正面の玄関から入る。

右に行き、左に曲がると、松の廊下が続き、
右手には大広間が続く。 左手は中庭で、
築山にまつがはえ、池に太鼓橋が架かっている。

突き当りを左に曲がると本多氏のお殿様の
お部屋がある、と想像しました。

正面玄関を左に行くと、事務方、賄い方などの
部屋が続く。

勝手に想像たくましく、お屋敷に侵入してしまいました。

ありがとうございました。
山崎陣屋御殿の図
【返信元】 山崎城(鹿沢城)その2
2011年01月14日 12:22
山崎陣屋御殿 イメージ

 山崎本多藩記念財団の横井氏に貴重な御殿の図面を見せていただいたのをきっかけに、上から見た屋敷を想像をたくましくして作図しました。あくまでイメージとして見てください。
 
「E-宍粟」支援隊そーたんs

▼山崎陣屋御殿
Re[2]: 鹿沢城(山崎町鹿沢) その2
【返信元】 Re: 鹿沢城(山崎町鹿沢) その2
2011年01月13日 13:40
了解しました。お役に立つのなら、どうぞ使ってください。
現在、御殿の建物全体の絵図を作成中です。参考になれば幸いです。
Re: 鹿沢城(山崎町鹿沢) その2
【返信元】 山崎城(鹿沢城)その2
2011年01月13日 12:03
1月16日の町歩き(講師は河本先生、私は副)の資料にこの写真を使わせてもらったら?と市役所のSさん,Nさんに提案したら、タケネットさんの承諾を得ないといけないのじゃないか?とのことだったので、日も迫っているし、私から言っときます、と言いました。よろしくご了解を!
Re: 鹿沢城(山崎町鹿沢) その2
【返信元】 山崎城(鹿沢城)その2
2010年12月29日 14:25
寛永17年の松井康映の時代には実質5万石であった
というのは、初めて知りました。
堂々たる大名ですね。