宍粟・播磨の城跡の「山崎城(鹿沢城)その1」
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山崎城(鹿沢城)その1
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2010年12月24日 15:57

山崎城(鹿沢城)のこと (その1)

 

 ~鹿沢城の築城の背景~

 

   天正8年(1580)5月10日、宇野氏の長水城と篠の丸城が秀吉軍により落城した。その秀吉軍に加わっていた神子田正治(半左衛門)が戦功により宍粟郡を領し、 天正12年(1584)黒田官兵衛に支配が移った。天正15年(1587)官兵衛は豊前中津(大分県中津市)12万石で移封になった。そして、宍粟郡は、竜野城主木下勝俊(姫路城主木下家定の長男)が治めることになった。

 

   勝俊は宍粟郡を領すると、手始めに山崎に新町づくりを命じた。これによって町場が形成され、市が立つようになった。

 

   慶長5年(1600)の関が原合戦後、池田左衛門輝政が姫路城主となり、播磨52万石の領主となり、宍粟郡も池田氏領となった。

 

   慶長18年(1613)池田輝政の後を継いだ嫡男池田利隆(15歳)が姫路城主となり、宍粟・佐用・赤穂郡が池田忠継の所領となった。しかし、2年後17歳で没したため、実弟の3男忠雄が跡目を継ぐが、そのとき兄弟に領地を分け与えたため、宍粟(3万8千石)は池田輝澄(てるずみ)が領主となり、山崎の地に本拠を置くことが決まった。弱冠12歳だった。

 

   そして、領主として初めて山崎の鹿沢に屋形を置き、築城が始まり、外堀の北側に城下町が形成されていった。寛永8年(1631)佐用2万5千石が輝澄に加封されたので、宍粟藩は6万3千石となり、急激な発展を遂げることになり、ほぼ現在の町場の原型が出来あがったといえる。

 

  しかし、築城が始まり50年もたたないうちに、たびかさなる領主の交代やお家騒動を経て、延宝6年(1678)に池田恒行(つねゆき)の没後、後継がなくなり、山崎池田家は断絶した。

 

  そこで、延宝7年(1679年)本多忠英(ただひで)が大和郡山市から入封し、山崎藩(1万石)の陣屋として明治維新(1868)まで8代189年間の統治が続いたのである。 (参考 「山崎町史S52」)

 

山崎城(鹿沢城)  この絵図が描かれた本多藩時代は陣屋といい、城とは呼ばなかった。

 

北の表門から見た陣屋絵図(元図 享保10年(1725)武間家客中秋月磐水之画・模写・)

 

   山崎城(鹿沢城)は内堀・外堀をもつ城郭としての形式ではあったが、天守は未完成のままであった。本多氏の入封により城は陣屋と呼ばれ、陣屋を拠点として藩政を維新まで果たした。現在その遺構は、紙屋門と土塀の一部だけとなった。昭和2年に小学校表門両側の掘りが埋めたてられ、昭和中期(昭和33年頃)まであった紙屋門右の角櫓(すみやぐら)も取り壊されて城・陣屋のよすがを偲ぶことは難しくなった。

 

▼紙屋門と土塀

 

 

 

▲山崎藩陣屋門(紙屋門)の説明

 

  

   今では、わずかな遺構と町家配置図から想像するしかない。しかし藩政時代の多くの古文書の解読により、その本多藩190年の藩内の武家や町民の歴史が明らかにされつつあるのと、その遺産の中に幕末のころに描かれた山崎陣屋の貴重な写生図(山崎藩士遠藤源介画)10枚が残り、陣屋のようすが鮮明に描かれている。

 

 

※山崎城(鹿沢城) その2につづく  http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=11377…bbs_id=122

 

※地名の由来「鹿沢・山崎郭内」http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=7067&…bbs_id=102

 

参考

 ● 『本多藩時代の山崎』〈第一集〜第四集〉

 ● 『伊能忠敬一行の山崎来藩』庄家文書「第八次測量隊関係文書」の解読 

 

 

 

「E-宍粟」支援隊そーたんs


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