宍粟・播磨の城跡の「柏原城(山崎町金谷) その1」
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柏原城(山崎町金谷) その1
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2010年12月16日 13:28

柏原城(かしはらじょう) のこと

 ▼柏原城跡     ▼国見の森展望台   ▼長水山       ▼南東部

 

 

 

 

比地の滝の上部に中世の城跡(柏原城)と寺院跡(長谷山遊鶴寺・はせざんゆうかくじ)の存在を知り、行ってみたいなと思っていたが、意外と早くその時が訪れた。

先日、長水山山頂で山歩きを楽しまれていた女性グループと出会い、この城跡・寺跡のことも話題になり、つい最近そこに登り、見晴らしがよかったこと、登山時間も長水山と比べればそれほどのことはないと言われたので、早速この登山を急ぐことにした。

 

この城の所在地は宍粟市山崎町金谷字石ケ谷。宍粟最南部の城であり、西は揖保郡新宮町奥小屋(現たつの市)との境界のある尾根上に位置している。

国見の森の登山コースの途中左にそれたところに、寺院跡があり、さらに北に登ると城跡にたどり着く。すばらしい山波の見える地で、しばし感動に浸ることができた。ここからの景色は、東の山上に見える国見の森の展望台からのものとは方角は同じなのに大きく異なっている。

 

城跡は、北・東・南部にかけての山々が180度見渡せる標高約500mの絶景の地なのだ。しかし、どうしてここに、城が建てられたのか。宍粟の南部の揖保川沿いの街道の見張りなら現在の国見の森展望台あたりが最適なのだが、この城はその背後に陣取る位置にある。

 

北には、長水城のある長水山が見える。直線コースで約5km。

 

 ▼柏原城から見た長水城(望遠拡大)

 

 

この柏原城は長水城の支城であったと考えると、何らかの連携を保っていたのだろう。狼煙(のろし)などを使った見張りの城だったのだろうか。この城へは、歩いてきた上比地からの山道では、途中急な山の斜面を通らなければ近づけなく、おそらく古道は、南北に連なる尾根筋が主流で、それとまだ確認はしていないが西の谷筋(新宮町奥小屋地区)方面からの道があったのだろう。いずれのルートにしろ、この城へのコースは難所なのである。

  中央の主郭と思われる削平地の周りには、幾筋かのなだらかなU字型の堀跡がはっきりと残り、人為的な平地が西奥に延びている。

 

 

展望のよい東端には高い見張り台や狼煙台が築かれていたのではないかと想像が膨らむ。そこからは、ほとんど山波しか見えない場所だが、ただ1か所集落の見えるのが城下地区南部と宇原地区北部で新宮町方面からやってくる侵入者は視認できそうだ。

  城の南東、山麓の東向きのに建てられていた大規模な仏教寺院跡がある。長谷山遊鶴寺跡である。いくつもの広い敷地跡とちらばった礎石が規模の大きさを物語っている。

この寺と山城との関係はどうだったのか。羽柴秀吉軍の攻撃により焼失したとされる寺院と古城、いずれも、今後の調査により新たな発見が期待される歴史ロマン溢れる地であると感じた。

 

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柏原城 (栗栖里1994 新宮町教育委員会)より

 

   宍粟郡山崎町金谷と新宮町奥小屋(現在たつの市)の境界の尾根上(標高約490m)に位置する山城で、城主は早瀬帯刀正義と伝える。

  築城年代は明らかではないが、天正8年(1580)の秀吉軍の長水城攻めの時に長水城の宇野氏の家臣、小林・春名氏等の諸将が守っており、秀吉軍の攻撃で落城した。この時、同山中にあった天台宗の遊鶴寺も戦火に遭った。

遺構としては、郭・堀・土塁等があり、主郭を中心として四方に郭が取り巻くように配置されている。当山城からは、平地に対しては山崎町上比地方面にしか視界がきかないが、高所であるため各地の山城を望むことができたものと思われる。おそらく当山城は狼煙等による通信手段連絡のためや郡境を守るための城ではなかったかと考えられる。

なお、比高差約400mの高所であるが、明治時代の地図には当山城付近を越えて新宮町と山崎町を結ぶ道が3本も描かれており、交通の要衝であったことも窺(うかが)える。

 

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「播州宍粟名所旧蹟 宇田義男著」に遊鶴寺と柏原城のことについて書かれているので掲載します。

 

長谷山遊鶴寺跡

 

   長谷山遊鶴寺(はせざんゆうかくじ)は、御本尊観世音菩薩なり。今は下へ安置し奏り。また其上なる山の附近の寺は昔16・7ヶ寺もあり、宗旨種々ありたりと云ふ。鐘楼堂(かねつきどう)の屋敷跡は3ヶ所有りて、下は一谷にして滝有り。不動明王を祀り給ふ。是又上比地の滝とも云ふ。

古歌に

         志さうなるゆり尾の不動あらたなり

         うごきなき世の 御ほとけにして

   然りと雖(いえど)も長谷山は、元来此由来深くして山は上が七尾七谷にして、下は一谷なるを長谷山と云ふなり。此山の峰に柏原城あり。城主は早瀬帯刀正義(はやせたてあきまさよし)なり。また西なる山の尾には柏原の構えの址ありて、領主柏原三郎頼宗住居す。城と構の址有り。是は元佐用郡上月太平山の幕下なりと云ふ。此城は天正8年(1580)に落城したと云ふ。此所は四方の景色大いによし。

 

 ・遊鶴寺跡と柏原城跡へのアクセス

 ▼国見の森公園 ハイキングマップ

 

  国見の森交流館の「国見の森登山口(A地点)」を出発し、防護フェンスを開けて、モノレールの下をくぐりながら進みます。「長谷山遊鶴寺跡入口(E地点)」の表示があるので、それに従って左に曲がり、いくつかの谷止めを横に見ながら杉林の中を歩くと館跡が左右に見え始め、寺院跡(F地点)に到着します。

 

 

 

   城跡へは、寺跡の上の沢にさらに小道の階段が付けられており、それが林道に続き、左に少し進んだ林道の終点が柏原城の上り口(G地点)です。ここまで約40分。

  ここから、木々に覆われた山の尾と谷あいを進むこと約30分で古城跡に到着します。

 

 

 

 

(取材日 2010・12・10)

 

 

・柏原城 その2  http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=11810…bbs_id=122

 

参考

・しそうSNS「しそうの滝」比地の滝(山崎町)   http://shiso-sns.jp/blog/blog.php?key=10959

・国見の森公園ホームページ   http://www.kuniminomori.jp/

 

 

 「E-宍粟」支援隊そーたんs

 


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Re: 柏原城(山崎町金谷) その1
【返信元】 柏原城(山崎町金谷) その1
2012年05月10日 18:16

金谷の奥の大歳神社のそばに「長谷山遊鶴寺」がありますね…
 

山上の遊鶴寺が廃寺になるとき、麓に移されたのか、あるいは額だけ降ろされたのか…
 

謂れが知りたいですね??

Re: 柏原城(山崎町金谷)
【返信元】 柏原城(山崎町金谷) その1
2011年01月13日 13:04
狼煙(のろし)のこと

 NHKの「あさイチ」(1・13)で木曽の宿場町の紹介があり、そこで「妻籠(つまご)を愛する会」の狼煙の実験の紹介があった。

それによると
 見晴らしのよい高台で、ドラム缶に生の杉葉を入れて燃やす。もくもくと白い煙が出る。数キロ離れた地点でその煙を確認できれば発煙し、リレーにより次々と伝えていく。色の出る煙もあったようだが、そこまでは、紹介はなかった。狼煙は時速80kmで通信できたという。条件がよければ最速100kmは可能だという。織田信長の殺害された事件(本能寺の変)が、京都から木曾まで半日で異変が知らされたという。

 狼煙の漢字は、狼(おおかみ)が使われている、狼が燃やす物に関係していたのか、日本狼は絶滅動物なので検証できない。

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 狼煙は無風状態であれば、天高く煙がたなびくが、季節風が吹き荒れるときは、煙が散って効果がない。風雨等の天候に左右されやすい狼煙は、いつでもどこでも送れるものではないから、情報量は限定的であったのではないかと容易に想像が出来る。色分けまで出来ればかなりの情報が遅れるが、一般的ではないので、あらかじめ示し合わした事柄の可否を表す発煙で、せいぜい煙の量や発煙時間などを組み合わして簡単なメッセージを送っていたのかなと思われる。

 戦国の時代、敵方の動向をいち早く察知することが、合戦を優位に運ぶことが出来る。もし、色の出る煙を使いこなしていれば、伝える情報は数倍になるが、実際はどうだったのだろうか。
 
 番組の最後に、狼煙についての情報をお寄せ下さいと結んでいたが、寄せられる情報に興味がありますね。

「E-宍粟」支援隊そーたんs