宍粟・播磨の城跡の「長水城(山崎町宇野・五十波) - その2-」
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長水城(山崎町宇野・五十波) - その2-
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2010年12月08日 17:58

長水城 (その2)

 

 

  城の構造は急峻な長水山最高所(標高584.7m)に本丸を置き、本丸から南に張り出す尾根上にニの丸、さらに、その先端、南東に張り出す尾根上に三の丸、表と裏の山麓谷口には、それぞれ砦・構居を配置し、表谷口入口から城へ至る谷筋平坦地に館、狭まった所に門を構えていた。表口入口の砦は「上町砦」と呼ばれるものである。長水城は郭の総数は35以上にのぼり、階段状になったものがほとんどで、郭と郭の段差は10mから0.3mぐらいで、そのうち、4m前後のものが多く、石積みは本丸跡主郭に見られるが、他では見られない。

 

 

  山麓から城に至る道は二通りあり、一つは南麓の宇野から谷筋に沿って二の丸と三の丸の中間に至る経路である。このため城は南麓の宇野から谷筋に沿って二の丸と三の丸の中間に至る経路で、もう一つは東南麓の谷入口の五十波を搦手としている。大手には砦を儲け、搦手には構居を配置し、谷入口の守りと領内支配の拠点として位置づけていた模様である。

 本丸は山頂最高点に25m×30mの長方形の主郭を設け、その前方に約5mの段差をもって細長い郭を設け、さらに1.5mの段差と高さ0.5mの土塁をもって二の丸に続いている。また大手と搦手からの登山道は主郭前方の細長い郭に通じている。本丸の西側は、崖状の急斜面となっているため、防 施設はみられないが、本丸の背部には10m以上の段差をもって三段の大郭が連結し、さらに屋根に沿って連結した10段の小郭と一つの腰郭が設けられ、各面にも郭が見られる。大郭と大郭の段差は比較的大きく4m~5mぐらいであるが、小郭と小郭の段差は0.3m~4mぐらいまでで、先端に行けば行くほど連結性を失い、自然地形の斜面と郭の組み合わせになっている。本丸の郭群の全長は230mにも及んでいる。二の丸は本丸よりも約10m低い尾根続きに築かれ、10m×14mの長方形の主郭を最高点に配置し、その周囲を幅3mの腰郭で囲み、その前方にニ段の小郭を設けている。帯郭と小郭は4mの段差を持ち、先端の郭は0.3mほどの段差で三区画に分けられ、その前方は急激な斜面の自然地形となっている。

 

   主郭の背部本丸寄りにも小郭を設け、ニの丸の全長は55mほどであるが、本丸・三の丸に比べて小規模である。二の丸と三の丸は急激な崖と堀切によって区別されている。三の丸は二の丸の先端から南東に張り出した尾根上に築かれており、二の丸より約30m低い地点位置している。大手からの道は三の丸背部の堀切付近に通じ、二の丸郭群の側面を通過して本丸に至っている。三の丸は10以上の連結した小郭から成り立ち、郭間の段差はあまりなく、郭群の両側には腰郭が所々に見られる。三の丸は全体的に自然石が露出している部分が多く、敷地が充分ではない。郭群の先端には堀切が見られ、その先は自然地形となっている。三の丸全長は220mぐらいである。

 

   大手の谷入口には尾根先端を加工して、長さ60m、幅13m、高さ10mの方形台状部を設け、その内側に高さ0.5mの土塁を設けている。土塁と谷川との間には10m×20mぐらいの規模をもつ屋敷跡と思われる区画が、谷奥に向けて三段以上に見られる。さらに大手口から一の門跡と伝えられる地点までの間にも館跡と思われる区画が7か所 以上認められる。谷が一段と狭まり、二の門跡と伝えられる地点付近には小郭、見張台的なもの、石積みがみられる。

 (日本城郭体系より)

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赤松家播備作城記

長水城又朝水又手水 完粟郡伊沢庄

広瀬遠江守師頼 赤松濃守藩資 初築之居城

同出羽守頼康同子相続

同土佐守則親 養子實父赤松築貞藩子相続

同左近将監満親 司子相続

同兵庫助親茂 同子相続所嘉吉元年落城也

 

宇野四郎入道加須 自文明元年再営之

同民部太輔祐清同二男也相続居城所 天正8年5月9日為羽柴秀吉生害落城也。

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「播州宍粟名所旧蹟」 宇田義雄著より

 

長水城の址 所在 昔は石作里 今は神野村五十波

 

そもそも長水山の城は、播州の霧隠(きりがくれ)の城とも云ふ。この城は元来河内国の※千早(ちはや)の城に似たり。南北は登る事六ケ敷くして峰峙(みねそばだ)てり。惣廻り24丁の小域なれども要害堅固の名城なり。本丸は44間四面にてニの丸は35間に40間、三の丸は30間四方なり。今はなし。秀吉公落城の日より堀り潰わしたり。合戦の頃は正親町天皇の御代天正8年(1580)庚辰4月朔日より五月中旬に至りて長水城にも高塀の内や外に村上源氏の定紋の左三つ巴の附たる白旗大旗小旗を数十本立てならべ折しも黒尾山の深山をろしの烈敷風に吹きなびかせて朝日に輝きて是ぞ村上源氏の末流にてさも勇ましく見へにけりと。

長水城主広瀬遠江守師頼初代より広瀬家五代つづき没落して後に宇野家五代つゝきて宇野下総守政頼公までなり。

広瀬家も宇野家も皆村上源氏の7條家のうちなり。従三位下総守源政頼公は下亀天正の頃には広嶋毛利右馬守輝元公の旗頭にして領地は五郡を領せり。

然りと雖も城址は高きところなる眺望絶佳の峰なり。山崎町も一目に見て遥向ふに沖中も見えて四方の景色きわめてよし。

又は 大手は昔は石作村五十波 搦手は昔は高家里上町

町は菅町、殿町、上町、中町、下町と五ケ町ありて、寺は七ケ寺有りて實に肉(し)粟郡第一の繁昌の土地なりしと云ふ。

 

五十波に長水より出張の構の址あり。西五十波村は全部家屋敷の跡あり。又東には永享12年(1569)に赤松満祐の草創なりといふ天台宗永享山圓福寺と云ふ寺ありて寺領地は字寺垣内なりしと云ふ。長禄元年(1457)11月に寺を改め真宗となる今は永享山本源寺と号す。初代住職祐信と云ふなり。

 

※千早城 所在地は大阪府南河内郡。楠木正成の城。四方を絶壁に囲まれ要塞堅固を誇ったといわれる連郭式山城。

 

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長水山へのアクセス

 長水山に登る方法は、二つのルートがあり、一つは宇野の伊水小学校右横から谷間を登っていく方法と、二つ目は、五十波から登る方法があります。

 

1) 宇野ルート

 

  伊水小学校の右手に、登山入口の表示があります。

 

  ここから深い谷間を登ります。道は木の階段が敷かれ、歩きやすくされていますが、かなりの距離があり頂上まで約1時間程度かかります。石の道標には13丁・12丁・11丁・・・と記載され、カウントダウンしながら頂上まで導いてくれます。登山半ばに、水は枯れ気味ですが、うぐいすの滝が右手に見えます。

 

 ※このコースは、梅雨時から10月まで山ひるが多いので注意されたい。

 

2)五十波ルート

  国道29号線を北上し、五十波の標識前の梯橋に登山口の表示があります。そこを左折し、梯川に沿って少し行ったところにさらに登山口の表示があるので、左折し小さな橋(こたきばし)を通り、新谷線という整備された道を登りつめたところに車を駐車します。

 

 

  ここから1km。急な山道のジグザグを登ること約40分でたどりつけます。山頂近くの左にそれた岩の窪みに小さな水ためがあります。大事な生活用水をここで確保していたのでしょう。

 

 

 

  さらに、長水山登山ルートとして、時間はかなりかかりますが、伊沢の里からの登

る道があります。日本一長い木の階段を踏みしめながら、長水山頂に続く見晴らしのよい尾根上を歩く約3kmのコースです。

 

 

 

※長水城(その1)http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=11203…bbs_id=122

※長水城(その3)宇野氏の最後http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=20421…bbs_id=122

「E-宍粟」支援隊そーたんs


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