宍粟・播磨の城跡の「長水城(山崎町宇野・五十波) - その1-」
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長水城(山崎町宇野・五十波) - その1-
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2010年12月02日 15:20

長水城のこと (その1)

▼山崎町出石の愛宕神社から見た長水山

 

 ▼長水城の石垣

 

 

 

 

   宍粟の城跡シリーズで、いくつか山城に登りましたが、この長水城(ちょうずいじょう)は山城としては宍粟随一の規模を誇ります。残されたすばらしい石垣を見ていると、この上にはどんな城郭が建っていたか知りたい気持ちにかられます。この城は、過去に山名氏・尼子氏の侵入を知る宇野家が力を注ぎ築き上げた鉄壁の山城だったにちがいない。しかし、その難攻不落と思われた城も、手練手管にたけた秀吉軍にあっては落城が早かった。

   中世の長い戦国の世を生き抜いてきた宍粟武士の最後は、はかなくもむなしい。宇野一族の血を残すため戦わずして織田方の軍門に下るのか、徹底抗戦で一族の名誉を選ぶのか。内部は揺れ動いたことだろう。押し寄せる怒涛の軍団を前にしながらも、上月城を奪還した毛利の後ろ盾の一縷の望みに宇野家の命運を賭けたのだろうか。

「夏草や兵どもが夢の跡」の句がよみがえった。落城後の宇野一族や家臣の落ち行くさまが山麓の村々にもの悲しい伝説として語り継がれています。

 

  

 


 

   山頂からの眺望はすばらしい。天気のよい日は南を向けば山波の上に播州灘の男鹿島(たんがしま)が見える。目をとじて、古(いにしえ)に思いを馳せてみる。戦いの火蓋が切られる数日間、この南方の揖保川沿いと東は安志峠から押し寄せた羽柴秀吉軍が長水の砦的役割のある河東の聖山城に陣取った。夜は月夜でもない限り闇夜となり、眼下に日増しに増えるかがり火と松明(たいまつ)の行列を見たときの心境はいかに。武者震いであったのか、それとも動揺と戦慄だったのか。

 

日本城郭体系の説明を中心に2回に分けて掲載します。

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

長水城 (その1)

 

  中世のおける宍粟郡は播磨の守護職であった赤松氏とゆかりの深い地域であったため、中世前半から後半にかけて赤松一族による築城が郡内においても行われた。

また中世末期の赤松家の没落と共に播磨西八郡の守護代であった宇野氏の本拠地となり、同氏による領内支配の確立と外的に対する防御を目的として赤松時代に築かれた城の改修と新たな築城が行われた。

赤松氏時代から但馬の山名氏と出雲の尼子氏の侵入の経験をもつ宇野氏は、郡内の北方と西方を重点に城・砦・構の配備を行ったものと思われる。

宇野氏は本城を伊沢荘長水城としたが、これは、この地が但馬・因幡・美作に通じる要衝の地であること、揖保川が形成した郡内一の生産力を誇る平野部を持つこと、周囲の山々が急峻で守りやすいということが理由になったものと思われる。

宍粟郡は中国山地の険しい山々が形成する谷間に平野が開けているため、外部からの山越えによる進入は困難であるが、郡内を南北に流れる揖保川沿いのルート(因幡道)と、東西に通じた山崎断層沿いのルート(現在は県道と中国自動車道が通っている。)は、古代から今日まで利用されている幹線交通路で、これを利用すれば容易に郡内に侵入することができた。このため、宇野氏の城は揖保川沿いと山崎断層沿いに配備された。宍粟郡は5町からなり(合併前)、山崎町を中心にして、その西に千種町、北に一宮町・波賀町、東に安富町が位置し、南は揖保郡新宮町(現たつの市)と隣接している。

新宮町・山崎町・一宮町・波賀町は前述の揖保川沿いのルートで結ばれ、千種町・山崎町・安富町は山崎断層沿いのルートで結ばれている。新宮町と山崎町は揖保川が湾曲し、両側から険しい山が迫る地点を境とし、山崎町と一宮町、一宮町と波賀町も同様の地形を境としている。

▼長水城要図

 

これら境界の自然の要害に宇野氏は石原城・鳥子城・塩田城・三森城・香山城・清野構・安積城などの城・構を配置し、本城にあたる長水城への守りに篠の丸城・五十波構・聖山城などを配置していた。

天正8年(1580)の羽柴秀吉による長水城攻めの際、宇野氏は本格的戦争に向けて宍粟郡への南入り口にあたる姫路市林田方面の松山城、新宮方面の香山城を最前線として守りを固めたが、同8年5月、宇野氏は滅び、宍粟に存在した中世の山城・砦・構は廃棄され、その後、元和元年(1615年)に池田輝澄によって山崎町鹿沢に山崎城が築城されたのである。

その後、赤松家の守護代として播磨西8郡の支配者となった宇野氏は、この要害堅固な城を一族の本城とし、整備していった。宇野氏は、その最盛期には揖保郡・宍粟郡・美方郡のうち十万石を領有したが、毛利輝元と通じていたため、羽柴秀吉の播磨平定の際も最後まで抵抗し、天正8年(1580)に木戸(荒木)平太夫・蜂須賀小六などの秀吉軍によって攻撃を受け、長水城も落城し、宇野氏も滅んだ。現在残っている遺構は、その時のものである。 

(日本城郭体系より)

 

※長水城 (その2)

http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=11253…1291798715

※しそうの城跡一覧

http://shiso-sns.jp/community/?bbs_id=122 

 

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