宍粟の地名(由来)の「地名の由来「豊福・平谷・淀」(佐用町)」
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地名の由来「豊福・平谷・淀」(佐用町)
【閲覧数】2,064 【マップカテゴリ】佐用町(現佐用町)
2010年11月24日 13:09
地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)
佐用町(現佐用町)

■豊福(とよふく)
 仁方村の北西、江川川上流域の標高200mから300mの谷間に立地し、因幡道が通る。豊福・茶屋・木里(きざと)・小猪伏(こいぶし)・日裏(ひうら)・濁淵(にごりぶち)の6集落がある。最高点は明神岳の388mである。地名の由来は、山麓の低地一帯に広がる湿地帯を、実り豊かな美田にした土地に、福の好字をあてたことによる。古くは甲豊福ともいった。濁淵の明神岩には、竜田大明神を祀る。

 中世の鎌倉期にこの地は豊福荘という荘園であった。建長2年11月月日の九条道家惣処分状に「播磨国豊福荘」と見え、当荘の年貢は最勝金剛院(京都市東山区)の寺用に充てられること、本家職は道家の子一条実経が所持すべきことが定められている。当荘はもと京都聖護院領であったが、最勝金剛院領の伊賀国音波(おとわ)荘(現三重県阿山町)と交換されたものであった。なお、赤松則村の弟別所円光の子五郎左衛門敦範が足利尊氏に仕え、戦功により、江川の豊福、平福の田住の2荘を受け、はじめ豊福荘に豊福構を作り、のち平福の利神城(りかんじょう)を築き、山下に別所の構えを作ったという。この別所氏は、のち天正5年(1577)11月羽柴秀吉の上月城攻めで兄貞道は帰服、弟林治は再び秀吉に叛き、天正6年正月上月城の山中勢と戦い敗れ、のち長水城に逃れ、天正8年(1580)5月長水落城後没落した。
 元文4年(1739)の平福領一揆の際、当村も天狗回状に連判し、鎮圧後首謀者として2名が処罰されている。因幡道は平福宿から正吉(まさよし)村境の新田坂を通り当村に至る。この峠道は慶長5年(1600)池田由之が平福に入った後に開かれたと考えられる。それ以前は当村より北へは丘陵の尾根の因幡坂を直線状に登り大畠村に出ていたとされる。

 元禄年間(1688~1704)頃までに平谷村と豊福村の2つに分村したと思われる。明治8年平谷村を合併。明治22年江川村の大字となり、昭和30年からは佐用(さよう)町の大字となる。明治22年江川村役場を設置。同35年仁方・大畠両尋常高等小学校となる。明治30年頃から農業の傍ら養蚕・畜産業を営み、昭和25年頃まで大きな収入源になっていた。昭和28年新田口・獨淵に村営住宅を建築。

■平谷(ひらだに)
豊福村の北西、江川川の枝谷に開けた小平地と西境の平谷深山(ひらだにみやま493m)東麓の標高300m~400mの山地に立地する。地名の由来は、穏やかな傾斜地の谷であることによる。地内の字御館(おんやかた)は、利神城由来の中に、別所敦範小屋場山を築くとあるのと無関係ではなく、門口・堂馬場などの呼称も残る。古くは乙豊福ともいった。元禄年間(1688~1704)頃までに平谷村と豊福村の2つに分村したと思われる。

 元文4年(1739)の平福領一揆の際、当村も天狗回状に連判している。明治8年豊福村と合併する。

■淀(よど)
 江川川流域の山間の急傾斜地。豊福村の西、大猪伏村の北に位置し、標高300m台の山地に囲まれた谷間に淀・亀ヶ逧(かめがさこ)・住中(じゅうなか)の3集落がある。西は美作国牛飼宮原村(現岡山市作東町)。地名の「よど」は「えご」と共通の言葉で、岩穴・くぼ地・小さい谷などで、湧水のある低湿地をいうほか、水音のよく聞こえる所をも示し、谷間の低湿地が語源となった。

 元文4年(1739)の平福領一揆の際、当村も天狗回状に連判している。観音山は風光絶佳の地であるが、過去何回も山崩れがあり、文化年間に山内に33ヵ所の石仏観音を安置して、安全を祈願している。

 明治22年江川村の大字となり、昭和30年からは佐用(さよう)町の大字となる。明治30年頃から農業の傍ら養蚕・畜産業を営み、昭和25年頃まで大きな収入源になっていた。昭和19年観音山に砂防工事を行い、観音池を築く。

◇今回の発見
・豊福は、中世の頃別所敦範が平福の利神城を築く前に構を築いた地であった。平谷に残る御館という地名には、どんな中世の豪族が住んでいたのだろうか。
・淀の多くの石仏観音は山の崩落の安全祈願のため村民の願いがつくらせたものである。

「E-宍粟」支援隊そーたんs

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