宍粟の地名(由来)の「地名の由来「仁方・大木谷(大猪伏・植木谷)」(佐用町)」
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地名の由来「仁方・大木谷(大猪伏・植木谷)」(佐用町)
【閲覧数】1,381 【マップカテゴリ】佐用町(現佐用町)
2010年11月22日 13:56
地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)
佐用町(現佐用町)

■仁方(にがた)
 福沢村の北、佐用川支流江川川両岸の河岸平地と後背山地に立地する。仁方・安井の2集落がある。地名の由来は、湿地帯を意味する「ぬた・にた」が転じたことによる。昔寺床山には、行基開創と伝える天狗山行基寺があり、兵火にかかって焼失したといい、鐘田・寺田・石の塔の呼称が残る。
 
 元文4年(1739)の平福一揆の際に当村も天狗回状に連判、鎮圧後首謀者として村民一人が処罰された。

 氏神は神庭(かんば)神社があり、周辺には神庭ノ元・宮ノ前・大前の地名が残る。この社の周囲には蹈鞴遺跡が点在する。「峯相記」には平安中期の陰陽師芦屋道満について、播磨国佐用郡の奥に住したと記す。道満の末孫は当村に住したが、のち英賀・三宅(現姫路市)に移住したと伝える。

 明治6年仁方小学校を開校、同8年大猪伏(おおいぶし)小学校を合併。明治22年江川村の大字となり、昭和30年からは佐用町の大字となる。
 明治24年仁方尋常高等小学校を開校、同35年同校と大畠小学校を統合して江川小学校を豊福に置く。明治30年頃から畜産・養蚕を営み、農家の収入源となり、昭和25年頃まで続いた。


■大木谷(おおきだに)
 江川川支流西河内(にしがいち)川流域に位置する。
 明治8年、大猪伏村と植木谷村が合併して成立。明治22年江川村の大字となり、明治22年江川村の大字となり、昭和30年からは佐用町の大字となる。

 明治30年頃から畜産・養蚕を営み、農家の盛んになり、農家の大きな収入源となり、昭和30年頃まで続いた。

■大猪伏(おおいぶし)
 江川川支流西河内川流域。植木谷村の北、仁方村の西、江川川から西に入る小支谷にある。大猪伏・瀬戸・空の3集落がある。地名は、屈曲して流れる谷川沿いに位置することによると思われる。
 元文4年(1739)の平福一揆の際に当村も天狗回状に連判している。「せいめいさん」と呼ばれる宝篋印塔があり、平安中期の陰陽博士安部晴明の塚(晴明塚)といわれ、600m隔てた植木谷村の道満塚と向き合っている。

 氏神は八幡神社。明治6年大猪伏小学校設置、同8年仁方小学校と合併し廃校。明治8年植木谷村と合併し、大木谷村となる。

■植木谷(うえきだに)
 西河内村の北、仁方村の西に位置する。江川川から西に向かう小支谷で、周囲を標高350~400mの山に囲まれた谷間に植木谷・下村・奥村の3集落がある。地名は、「植」は上で高所を示し、山の中腹に位置することの意による。

 元文4年(1739)の平福一揆の際に当村も天狗回状に連判している。植木谷から南に向かい大撫山(260m)越で田和村(上月町)へ至る山道があった。
江戸期~明治8年に大猪伏村と合併し、大木谷村となる。

 下村集落の東、標高250mの山上に道満塚と称される墳丘状の土盛があり、寛政9年(1797)再建の「どうまんさん」と呼ばれる宝篋印塔がある。平安期の陰陽師芦屋道満は藤原道長を呪詛しこれを安部晴明に見破られて播磨国に流されたと伝えられ(峯相記など)、当地で死去し、その墓と伝える。この塚は600m隔てた大猪伏(おおいぶし)の清明塚と向き合っている。氏神は八幡神社。明治8年大猪伏村と合併し、大木谷村となる。

◇今回の発見
・播磨佐用の地に陰陽師にまつわる伝説が残る。大猪伏の「せいめいさん」と植木谷の「どうまんさん」が600mを離れ向き合っている。陰陽師安部晴明や芦屋道満の塚と伝える塚にたつ宝篋印塔が向き合っているというのは興味を引く。
・宍粟市波賀町に鹿伏(しかぶし)という鹿にまつわる地名があり、佐用町には大猪伏とよく似た地名があるが、こちらの地名の由来には猪(いのしし)とは関係がないようで少し残念。

「E-宍粟」支援隊そーたんs

▼マップ   ▼仁方・大木谷の小字

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