宍粟の地名(由来)の「地名の由来「円応寺・本位田」(佐用町)」
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地名の由来「円応寺・本位田」(佐用町)
【閲覧数】1,453 【マップカテゴリ】佐用町(現佐用町)
2010年11月18日 13:17
地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)
佐用町(現佐用町)

■円応寺(えんのうじ)
 千種川支流佐用川中流左岸。長尾村の東、北端で支流金近川が合流する。集落は河岸段丘にあり、後背は標高200m台の山地である。古くは福地と称したが、南北朝期に円応寺が建立され、のち寺名を村名とした。

 元弘2年(1322)の後醍醐天皇西遷の遺跡や、建武新政の功績者佐用兵庫介範家の墓という宝篋印塔がある。円応寺跡に 後醍醐天皇がさし木をしたというビャクシンの大木があったが、昭和20年の台風で倒れ、幹が現地で保存されている。北山城(円応寺城)もあったという。

 北山円応(禅)寺は、大朴玄宗の開山で諸山の格式を有したが、今は小庵が建っており、丸型造り出しの柱石が残る。

 明治12年以来佐用郡役所が畜産・養蚕を奨励し、米麦作とともに、主産業となった。明治22年佐用村の大字となり、昭和3年からは佐用(さよ)町、同30年からは佐用(さよう)町の大字となる。


■本位田(ほんいでん)
 冠(かんむり)ともいう。千種川支流佐用川中流域右岸、佐用平野北部の高台に位置し、高田・塩田・冠の3集落がある。地名の由来は、律令制下の※位田(いでん)であったことによる。「風土記」に見える賛用都比売命を祀った佐用都比売神社は式内社。旧石器時代・縄文時代の本位田池尻遺跡、本位田古墳群、奈良時代の掘立柱建物跡が発見された本位田遺跡など遺跡が多い。
※位田:律令制で、親王以下五位以上の者に位階に応じて支給された田地。

 建長2年(1250)11月の九条道家初度惣処分状に佐用荘内本位田とみえ、道家から嫡孫忠家に譲られている。観応元年(1350)12月5日、赤松円心の遺領の佐用庄内本位田ほかを円心嫡男の赤松範資が相続している。応永18年(1411)10月17日、赤松満弘が本位田郷を700貫文で京都天龍寺南芳(なんほう)院に売却している。満弘は同23年12月13日には「江河郷本位田内公文職」を大徳院へ売却した。

 江戸期には本位田村といい、元禄郷帳には「ほんじん」村と訓む。江戸中期頃までに長尾村を分村。鎮守は佐用都比売(さよつひめ)神社で、池田氏の検地の時、神領地3反余を輝政に与えられたという。古くから、佐用郡中が氏子。鳥居が社殿の北側にある珍しい神社である。寺院は浄土真宗教蓮寺。明治初年までに塩田村・高田村を分村したと思われるが、同9年再び当村に合併。

 明治22年佐用村の大字となり、昭和3年からは佐用(さよ)町、同30年からは佐用(さよう)町の大字となる。明治30年頃から畜産・養蚕業が米麦作とともに、主産業になる。大正13年佐用郡比売神社は県社に昇格。昭和50年中国自動車道開通。

◇今回の発見
・円応寺は、上月の円光寺と同じく、寺名が地名となる。古くは福地といった。
・本位田が通称「冠(かんむり)」というのは佐用都比売命(さよつひめのみこと)の冠が流れついた伝説が残る地である。本位田の地名は、元は位田の地であって、律令制時代、朝廷から位階により与えられた田から来ている。その後は私有化して荘園となったという。

「E-宍粟」支援隊そーたんs

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