宍粟の地名(由来)の「地名の由来「秋里(下秋里・上秋里)」(上月町)」
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地名の由来「秋里(下秋里・上秋里)」(上月町)
【閲覧数】1,245 【マップカテゴリ】上月町(現佐用町)
2010年11月05日 13:29

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)

上月町(現佐用町)

 

秋里(あきさと) 

佐用川支流秋里川流域の谷間。江戸期の村名で、正保3(1646)に上秋里村・下秋里村に分村した。地名は地内にあったという願入庵()の晩鐘の響きが秋暮の静寂を誘うことに由来するという。備前国和気郡に通じる旭街道筋にあたる。

 

□下秋里(しもあきさと)

円光寺村・久崎村の西、佐用川支流秋里川の狭い谷間に位置する。両側の山地は急峻で標高300mを超え、多くの小谷がある。播磨から備前に至る道が谷底を通る。もとは秋里村1村であったが正保3(1646)に上・下に分村。

佐用川支流の秋里川下流域に位置する。戦(たたかい)・北条・板垣・仁安(にやす)に集落があり、氏神は円光寺八幡神社。地内に荒神社3・山の神社1があった。寺院はないが、願入寺があったと伝える。

明和元年(1764)・同5年・同8年・同9年・寛政8年・弘化4年に大洪水があった。文政8(1825)天命の飢饉、慶応2(1866)の凶作で百姓一揆を起こし、久崎村に出て富豪を襲った。文政8(1825)当村と上秋里村・西新宿村・大日山村の紙屋惣代が連署して、三日月藩の指定問屋制により紙価が下落し紙漉きが困窮していると訴え、是正を願出ている。嘉永元年(1848)には当村紙屋7人で147束を生産している。

 明治22年久崎村の大字となり、昭和15年久崎町、昭和33年からは上月町の大字となる。明治30年前後から、畜産・養蚕業務に従事するものもあり、婦女子のわら芯切りも盛んで、昭和25年頃まで続いた。明治39年から旭街道の改修に着手、同41年完工。大正12年電灯架設。

 

□上秋里(かみあきさと)

佐用川支流の秋里川中流域両岸の狭小な平地と後背の急峻な山間地に立地する。播磨から備前に至る道が通る。もとは秋里村1村であったが正保3(1646)に分村。

  正徳5(1715)北部の標高350mの高地の梨ケ原池を改修、大日山川下流域の小日山(こびやま)村・大畠村・須安(すやす)村・力万(りきまん)村・上月村の田畑7町5反余に用水を供給した。上記5か村は当村に年間銀400匁を支払っている。冬から春にかけて紙漉きを行い、嘉永元年(1848)には紙屋8人、漉高169束・紙代銀1638匁5分で、口銭491分余を納めた。

 氏神は円光寺村八幡神社。古くは秋里の808荒神というほど、荒神社を祀っていたという。地内に寺はなく、村人は赤松村真言宗松雲寺の檀家である。下山・秋里の2集落のほか、秋里の南方約2kmの山上小平地の大釜にも集落がある。ただし、同集落の大釜姓の6戸は西新宿村、福本姓の6戸が当村に属し、明治9年には両姓とも、秋里に属した。久崎へ出るには山中の山道を焼く4km歩いた。明治22年に久崎村の大字となり、昭和15年久崎町、昭和33年からは上月町の大字となる。

 明治23年の洪水で、秋里川の水かさは1丈2尺(10m)増し、同年の災害復旧費が2,210円。同30年前後から農業のかたわら、畜産・養蚕を営み、冬季の副業として、製炭関係業に従事する人が増え、婦女子は内職のわら芯切りに精励、米麦に匹敵する所得を得て、昭和25年前後まで続いた。南の山中で生活を営む夏切在所は一時13戸があったが、不便が多く他への移住により次第に減少し、大正7年に無住地になった。大正12年電灯架設。大正7年地内の字大字が大字となる。

 

 今回の発見

・秋里の地名の由来は、寺の晩鐘の響きからきた(久崎村誌)とはなんとも奥ゆかしい。

・上秋里の夏切在所は13戸あったが、大正7年に無住地となった。移動手段が徒歩の時代は急峻な谷あいを何キロも移動するのは大変だったに違いない。

・下秋里の小字に「戦」が残るが、地名にまで残ったの戦いとはどのようなものだったのだろう。

     

「E-宍粟」支援隊そーたんs

 


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